2008・12・9 AM2:10

「あれから寝たきりになってしまい」って、何だ
「寒さに負けました」て。



−あのさぁ…あたし惚れちゃったみたいなのよね
例の産婦人科医。それでもう起きあがれなくて…



ってあいつか。展開はやいな。でもいい歳だろ?
妻子とかいるんじゃ?



−しらない。でもいいオトコなの。防衛医大卒で
ちょっとカゲあって。あたし好みの。



2どあっただけじゃん。



−忘れらんなくて。どっかに画像おちてないかと
思って検索してんだけど全然、見つかんなくって。
つらくて…



あーわかった。もしかしてだれかの前でハダカに
なると最期、恋に堕ちるタイプ。平安時代だな



−そうだ。そうなんだあたしどうしよう?診察台
のっただけなのに…



いい方法があるよ。今年わだいのチロ君が死んだ
74ねん。ヤングの間で爆発的に流行したものは?



−えーわかんない。キャンプ?マリファナ



ストリーキング。これから新宿アルタまえいって
ひとまわりしてこいよ



−あたしのことがきらい?



街ゆくひとがみんな恋人に見えて人生バラ色だぞ



−おんなだって歩いてる



なら、とりあえずハッテン場は?



−殺されちゃう…



ワケ話して練習だっていえば。過大評価はだいじ。
風車が教会に見えてたんだし。ヌード写真集でも
だしとく?



−あたしのことが嫌いなの?

西麻布・路上 PM9:40

なんでこんなとこにお茶おいてるんです?



−静岡のお茶よ。いれたばかり(右手の坂うえを
指さす。10人ほどの夜警たちの背中。蛍光色の
ベストがゆれてる)のみなさい?



もうそんな季節に…お巡りが混じってますね。?



−そうなのよ。引ったくりが(と説明はじめる)
赤坂のほうでもあったんですって



ウチはむこうがわだから渋谷ですけどね。3ねん
くらいまえにあったかなぁ…でもコドモだったて
はなしでしたよ。あとから聞いてみると



−オウムんときはこの辺だけでまとめて18けん
あったんだよ。ほら、新聞やのバイクがいっぱい
きたろ?



あの群れんなかに盗賊もまじってくるわけですか。
でもさいきんじゃお店、どこもガラガラでしょ?
そこにできた鉄板焼きのチラシ、森英恵のまえで
くばってましたよ



−家賃が高いからねぇ…じぶんでもってりゃいい
けど、今じゃ2ケタちがうんだよ(しばらくの間
どこが潰れた、どこの支払いが滞ってる、どこが
時間のもんだい。みたいな話。サンクスと隣りが
なくなったのは不振でなく手をひろげすぎたせい。
警察横の焼肉とカラオケもビルまるごとやってた。
今さら焼肉などが成功すると思ってしまったのか)



このへんじゃ、どこが美味しいんです?どちらへ
いかれます?



−いきゃしないよ。○八だって入ったことないん
だから




あそこいきゃしないでしょう。沖縄ダイニングは
どうですかね?



−あたしらこのカッコだろ。そこのイタリアンは
もってきてくれっから、たまに声かけるけど




なにたのんだらいいですかね?肉料理でしたっけ?



−スパゲッティやだよ。あそこは。孫なんかはピザ
たべてるけどね



そりゃ洒落てますね。



−まわりはどんどん洒落てくんだよ



ハンバーガーやがありましたよね?



−あんたそれ、いつの話



3ねんくらいになります?なくなってから



−2年は堅いね。2年はんてとこ



(mixi日記2008年11月17日より)

後期恋愛資本主義

ちょっと前からふりかえってる80年代の流れで
ETV「絆・恋愛至上主義のはてに」を見てた。
まことしやかに世界の滅亡が囁かれ、郷ひろみ
渋谷の路上で無許可で歌い、美容師がカリスマと
呼ばれはじめた年の夏に、放送された番組。
焦点となってるのは石油ショック以降、性革命と
政治の理想に挫折した人々が、より内向的になり
恋愛や同棲へと救いを求め、それが個人主義への
道をひらき今へいたるという、現代日本人の感情
教育の歴史である。
いわゆる恋愛マニュアル文化において、いったい
我々はどんな行動原則のもとに、苦しみの周りに
夢という名の繭を、つむいできたのか。番組では
同時期を代表する恋愛の教祖−松任谷由実の歌と
それらに影響をうけた人たちのコメントを通じて
時代精神をさぐってく。
しばしば「ベタ世紀末」と形容される21世紀の
プロトタイプだった、あの年。社会のあちこちが
悲鳴をあげてた。でも口調や表情は、明るかった。
特に地方でのロケに、如実に顕れてた。
愛を信じ郷里にとどまったり、いったんは都会へ
でたものの、なくしかけてた憧れを取り戻せた。
もう無理だ。今やこんな景色は、どこにもない。
誤解を恐れずいえば日本人なんて、いなくなって
しまった。
すくなくともぼくの目には、この瞬間でもきっと
どこかで暮らしてるだろう彼らが、同じ人たちと
思えない。別人だと信じるだろう。替え玉とすら
妄想するかもしれない。
人々は未来への希望を、語ってるのである。



とある識者も、持論を展開してた。
「14ばんめの月が好きだ。あとは欠けてくしか
ないからだ。まるで新古今の世界だ。今の若者は
貴族ですよ。でもなにかをひきかえにした底には
巨大な喪失感が…」
ちがうだろ。と思った。それは甘い。なぜならば
喪失感は甘さをも与えうるから。ぼくが見てきた
人たちは、みんな形容しがたい不安をかかえてた。
鍾乳洞の迷宮を手さぐるほど盲目だった。
「人間はどうせ、自らの利益でしかうごかない」
大半の人がそう叫んでた。どれだけ不利な発言か
思いよらずに。喪失感そのものを失ってしまって
なければ、ここまでは堕ちない。
理由のみつからないため息のみが不安をよぶのだ。
我々はこう教えられ、育ってきた。
価値観を最大標準化せよ。自分を売りものにしろ。
なるべく高く売れ。1番大切なものから売れ。と。
そこで我々はカルチャースクールへ通い、TVの
スイッチをひねり、最近ではネットを立ちあげて
新製品と命をひきかえてくれるクーポン券を探す。
これこそが人間の市場化、物象化、恋愛市場主義。
しかし語られてきたどれもが嘘なのだ。村の経済
コドモ銀行のレベルなのである。
まるで同じ価値観をもった人間同士が等価交換を
なしとげてる。これが愛の理想と説かれてるのだ。
金持ちはどんどん大金持ちになってき、貧乏人は
ひきはがされてく。
ぼくの視界には、そんな姿しか入ってこなかった。
我々は持ってるものばかりか、もってないもので
すら売るように強要されてる。嘘ではなくうそに
なるのだから、今だけは。と囁かれて。
この強欲さは−あえて強欲と呼ぶが−その年齢が
幾つだろうと、彼ら彼女らが本来もちあわせてる
つつましやかな春をひさいでる者たちがこの世で
最も良心的な人々に見え、余りの馬鹿バカしさに
手をふれる気すら、なくさせるほどなのに。



革命とはなにかが起こった結果、以前が想像すら
つかなくなる事態をさす。
フランス心理小説を読むと、こう思う。なんたる
アナクロ。家と家のむすびつきがあって愛が並立
してるわけか。で?これはギリシャ時代の知識人
みたいなもので、とすると全てのひとが必ずしも
当てはまるとは言えない部分が…?
早速わからなくなってきてる。
ところが近ごろ耳にするのは
「それじゃお互いが輝いてらんなくなっちゃう…」
わかるよ。とは相づち打ってる。しかしほんとは
思ってる。セレブのいいぐさだな。
どいつもこいつも芸能人の恋愛みたいな口ばっか
ききやがって。要はお前も人気が最優先なわけだ。
座敷へ声がかからなきゃメシのくいあげだからな。
そんな中へいてぼくの生活は、すっかり破綻して
しまったのだった。前は生活といわれてもなにか
不明だった。とうとう1どたりともつかめぬまま
だんだん地球が、狭くなってく。どこのホテルの
ダブルベッドも交換可能に感じる。ふとした瞬間
くらやみで、己のGPS座標を失ってしまうのだ。
どのページをめくっても、だれの日記をクリック
しても、針ネズミのように他人を威嚇してる。
見ちゃおれんな。と思う。目をふさぐ。ますます
闇が友になる。
ここぞとばかり隙を窺って、街を闊歩してるのは
分身たちだ。
「最近はどの女に食わしてもらってるの?」
10数年ぶりにあった美容師に開口1番いわれた。
お世辞とはいえ、ひどすぎる。
それいうなら「どんな」だろ。とは思ったものの
先方の、それこそ30近く年長のイメージに棲む
ぼくのいくばくかは、こういう類いの人間なのだ。
あんないうなんて許せない。もういい。どっかに
誰かあたしだけを愛してくれるひと探してみせる
(あたしは浮気するかもだけど)。
帰りに立ちよったクオーターパウンダーの地下で
ひとりがけのLC2へ背中をおしつけ、毒づいて
みたものの、はじまらない。なんたってみんなに
ちやほやされたいだけなのだから。
番組が放送されたのは、IT革命の年だ。きっと
性革命と匹敵する断絶があったのだ。
革命が頻繁に起こりっこないのも知ってる。
既に過ぎ去ってしまった革命を、今かと心まちに
してる人、つい直近の過去を未来の希望のごとく
語りかけてくる人も山ほどいた。
今年はそんな年だった。

ほろしぐれ

Midas2008-11-05

ハロウィンが終わったと思ってたら、もう花屋の
店先では、3mほどの白木を組み合わせた円錐へ
葉っぱをまきつけたりしてるのである。



Yさんがお亡くなりになったとかで、通夜へいく。
ひと頃は顔を拝まない夜はないという感じだった。
最後に話したのは数年まえになる。
90年代の初めまでは、アパレル業をしてらした。
その関係のひとたちが多かった。見知ってるのも
いくらかいた。私みたいなのはごくわずかだった。
Mにあった。
くるぶし丈のバルーンスカートワンピースだった。
せめて膝上5cm程度にあげ、全体の黒もそんな
くすんだ黒でなく光沢のある、たとえばシャネル
バッグのような黒。にすべきなのではなかろうか。
とつかのま、思いはしたのだが、何たって最近は
鷹揚な人間で通ってるのだし、だいたいからし
向こうは服飾のプロだ。ボンクラが意見するのも
スジちがい。



きてるだろうなとは読んでた。
しかしそこまで、近づいてこなくてもいいのでは。
手をのばせばとどくような距離の、スモーキング
スタンド横に立ち、灰吹きをJPSで叩いてる。
目はなんどもあってるのだが、逸らしてきたりは
やっぱり、しない。
たびたび地面を見つめるのもあきたので
「(昨日連絡があってこの件を知るに至りました。
本来でしたらばわたくしが遠慮して身をひくべき
だとは重々考えはしたのですが)本日は厄払いの
つもりでまいりました」
こえかける。わりと間髪いれず
「厄おとし。でしょ。?」
返される。



日ごろのね。そう続けるつもりだった。のだけど
5歳とし上だったのを忘れてた。
ほぼ12ねんぶりだった。
早めに帰る。ひと段落してまた出る。午前3時半
たった10数秒だけフロントウィンドウが濡れる。
朝の天気予報で言うだろうか、と思う。灰を噛む
とはきっと、こんなこと言うのだろうな、とも。
7年まえ、どれほど大人だったかなんてとっくに
忘れてしまってる。

午前10時の黄昏

Midas2008-10-30

久しぶりにメールボックスを開くと、ベルリンや
マドリッドシンガポール、地球のあちこちから
「STAY COOL。俺たち愛しあってようぜ」
みたいなお便りばかり、舞い込んできてて、一瞬
なにごとかと思ったのだった。
掲示板で与太話をする仲で、顔も知らないのだ。
ああそうだった。世界は未曾有の事態なんだっけ。
連中の周りも、さぞやなテンパり具合なのだろう。



東京の街は午前10時なのに黄昏れてた。昭和を
見上げてるみたいな鰯雲だった。とっくに全てが
とりあえず崩壊してるにもかかわらず、どうにも
止めようがない。魂は抜け殻なのに、肉体だけが
永遠に砂糖黍畑で働かされてる死霊の街みたいだ。
根津美術館は玄関先にトンデモ建築を造ってるし
ミドリ安全のとこも、トウキョウリラックスに
ヤラレすぎとしか思えないミッドセンチュリーな
塔を立ち上げてる。
目に見えるとこではなんも換わってないのに実は
なにから何までもが違ってる。絶対に回収なんか
できるわけないって、みんな薄々、感じてるのに
言いだせずにいる。あの
「わかっちやいるけどやめらんない」
が、呪いとなって戸口を、叩いてるかのようだ。
昭和の精算とやらは未だ、済んでなかったんだ。
そう思った。



前回のバブルに比べても、この崩壊感覚は唐突だ。
たしか91年の5月だったか、ナイジェルコーツ
とい面の寿司屋に銀行が1億現金包んできたとか
「このタイミングじや遅いだろ」
そんな噂になってたのを覚えてる。しかし、件の
マンションは現在も残ってるのだ。結局は地上げ
しきれなかったし、古屋も壊せなかった。それが
今や、いたるとこで復興の槌音だけが響いてる。
バーチャルの世界だけが滅亡したのだから現金を
ばらまけば日本はなんとかなる。
そう信じるひとの気持ちも、よくわかるのだけど。



ちょっと前までは、髑髏が流行ってたのだった。
これは「メメント・モリ」生のただ中にあっても
汝、死を忘れることなかれ。精一杯、頑張ろうぜ
程度のニュアンスである。それが昨今では
「世界中でスリラーダンス」
90都市でギネスに挑戦してるのだ。東証の株が
あのメガヒットアルバム発売の年の水準まで下落
死んでることを知らない地獄の使者たちの真似に
血の道あげてるのである。
あなた実はとっくに死んでませんか。
これを他人に伝える。ただそれだけのために。
ゾンビに噛まれると伝染とは、よく言ったものだ。



散歩へいくとき必ず通りがかる、名前を言ったら
誰でも知ってるカリスマ美容室が、炎上してた。
白大理石にこれで1万円?!みたいなメニューが
書いてあって覗きこむと綺麗な人たちがますます
綺麗にならんと、鏡を食い入るように見つめてる。
そんな魔法の館だったのだけど、並木道を望める
窓という窓には合板ボードが張られ、お客様各位
には支店や本店へお出でくださいますよう。とか
避難勧告が、画鋲で留めてある。



たしかこのマンションも地上げの対象となってて
営業以外は、だいたい退いてたはずだ。
前回の規準で順当に考えるなら間違いなく点け火
なのだが、たぶん違うと思う。
きっと「自然に」燃えたのだ。
放火だったらまだよかったのにね。というやつだ。
せっかく話が進んでるのに、最悪のタイミング。
まさかボイラー室がとっくに機能不全に陥ってる
だなんて、想像だにしなかったのだろう。



ご近所の駐車場では1962年型のギャラクシー
コンバーチブルが、初おめ見えしてた。
年式もよい。色もよい。勿論、元色でなく塗料も
違う。吹いてから20年にはなる。
前回のブーム時に入ってきた車両なはず。パテが
出てるとこもあるしボンネットは浮きはじめてる。
しかし実にフランスっぽい。屋根だけが新しい。
こちらのお宅は、前は先代のセルシオだった。
本来だったら、新型のLSなりに入れかえるべき
とこをやめて50年近く昔の中古車を転がしとく
ことにしたのである。



経験した人なら、思いあたるふしがあるはずだ。
例えば10年、10万キロ走ったクラウンとかの
ハンドルを握ってみると、これがヘタレたアメ車
そのもののフィーリングなのである。
あの高密度な感じは、舞踏会帰りの馬車のように
カボチャにかわってしまう。
2重のアイデンティティとすらいってよい。
これが日産になると、まあ元からダットサンだし
アメリカンと言われても、驚きはないのだけれど。
つまりは日本人は忍者であることを自覚してない
忍者みたいな存在なのであった。
オハイオからの観光客に
「いや。いないんですよニンジャなんて」
説明しても、通じないわけである。



当然、部品をどんどん交換してけばそんな事態は
おこりえない。ただ、悲しいかな。なんだかんだ
いって日本車は、停まりもせず走ってしまう。
明らかに壊れてるのに停まることを知らないのだ。
「なんだアメ車かよ」
こちらのお宅は運よく、気がついたのだと思う。
あらためて見てみると、意外と小さく感じる。
実際、現行のLSとたいして変わらないのである。
特に最近のひとこえ2トンが当たり前のSUVや
3ナンバーなBセグメントに慣れてしまうと余計
そう思う。

2015年の挑戦

なるほど女優は、時代の相貌である。
とあるTVドラマの再放送を眺めながら、そんな
ことを思ってたのだった。
最近ではBSのみならず、地上波にチャンネルを
あわせるのですら、かなりの集中力が要求される。
うっかりザッピングを忘れ、ネットサーフィンを
しながらBGMがわりに、つけっぱなしにしてる
と、気がついたら30倍に薄めて使えるまほうの
洗剤や、たった15分で別人のように変身できる
超音波腹巻や、結局ぜんぶで何キロ届くのかよく
わからない松前漬けを、押し売られてしまうのだ。



沢尻エリカは、TVショッピング顔のヒロインだ。
10年後にあべ静江ロザンナ榊原るみの座を
奪取し、黒沢年男の右腕となってても不自然とは
いえない、あの存在感。
かつてのヒロインたちのように、エリカは愛など
約束しない。
ぼやぼやしてるとなにを買わされるか、わかった
もんじゃない(実際、伝えきくとこによればそう
いう話らしいが)。ブラックカードもたちまちの
うちに溶かし、パナソニックていどの退職金なら
1レースで吸い込んでしまう、ハイレバレッジ
時代にふさわしい、牝馬なのである。



ウィキペディアによるとこの話は、なすすべなく
死んでく女の実話を基にした、人間ドラマなのだ
という。
たしかに15分に1回、CMへいくまえに大量に
粉雪が舞ったりして、かならず泣かしてくれる。
ひところ流行ったジェットコースター・ドラマの
スピード感を兼ね備えた、メロドラマ。気持ちが
弱ったときには、これほど適切な環境もない。
人生に疲れたあなたに、ぜひどうぞ。
はたしてそんな、単純な解釈でいいのだろうか?



今でこそまさか、とみんな思うだろうが、ほんの
3年まえは、こんな世の中だったはずだ。
ネットにつなぐだけで、おいらまる儲け。
サービス立ち上げて広告を貼る。ワンクリックで
株式分割脆弱性?みたいな。
証券会社とオンラインで結ばれ、インデックスで
買いさえすれば資産価値が上昇したからこそあの
ワーキングプアー共も文句など言わず、大人しく
絞りとられるにまかせてたのだ。
どんな天才でも
「安値で買って高値で売ればいいんだよ」
そう言ってれば万事が済んでしまう、気楽な社会
だったからこそ、何にもできないで死ぬしかない
人間が聖の符号をもち、輝いて見える。
要は反論の余地を全く許さない、極めて悪質かつ
猥褻な、証券化資本主義のプロパガンダなのだ。



金融工学とは、いったいなんだったのか。
再びウィキぺディアを見てみると、このドラマは
原作との間に、アリバイ操作をしてるのがわかる。
実話は62年に生まれ、いざなぎ景気をへて石油
ショックを体験、あの消費社会だった80年代の
狂騒に目をそむけるように、バブル経済の絶頂に
幕をおろした人生。
ドラマは89年に生まれ、IT革命とその崩壊を
経験し、あの証券化が頂点を迎えた2005年に
身体の不調を訴え…
つまりこのドラマで涙し、癒された人はもれなく
最悪でも、2015年までは、CDSのおかげで
右肩あがりの経済成長が続くと信じれたのである。



今回の経済崩壊を語るに
「結局は未来のお金をあてにして、もってもない
のに使っちゃったんだよ。だから借金漬け」
みたいなブログエントリを、あちこちで目にする
ようになった。
ドラマの設定を17年、ずらすようなもんである。
それはきっと、半分だけ正しい。
なぜならば私たちはいつだって、明日をあてにし
生きてきたから。天上界から火を盗んできたから
人間がある。神は他者であり未来であり取引きは
成立しない。盗むしかない相手、という者がいた。
もっといってしまえば、盗みこそが本来は過去の
者たち−死霊に代表される祖先を、未来からくる
使者へと、脳内変換するカギなのだ。
金融工学がしばしばプロメテウスにたとえられる
のはそういうことだ。



未来へなにかを投げる。
そして戻ってくるのはいつも、意味である。
意味はいつだって、明日からやってくる。
ああそうだったのかと後悔する。意味とは死だ。
どんな意味ですら致命的だから。
ドラマではエリカが
「ずっと生きてて」
「生きてたい」
叫び続ける。決して渡辺淳一ドラマのように
「あたしを殺して!」
ヒスったりしない。従順なのである。
これはありがたいことだ。しかし代償は大きい。
ここで説かれてるのは生のイデオロギーでしか
ないからだ。生と死は対立しない。秋になって
最後の1葉がおち、枯れてくようなイメージで
死をとらえることこそ、病なのだ。
生の中にいつも死はある。未来からやってきて
私たちの身体を奪いさってしまう、宇宙人とは
Xチャンネル光波さえあれば、いつだって交信
可能だったのではなかろうか。個人的にはあの
ドラマこそが、豊かさを祈願するあまり、何か
とてつもない破局を、召喚してしまったような
気すらしたのだった。

倫理における掟としての不老不死

ナイジェルコーツのとなりに朝5じまでやってる
オープンカフェができた。
片側2車線をはさんだお向かいが24時間営業の
エネオスだ。最近は景気が悪いせいか、西麻布も
静かなもんである。平日3時をすぎると、ろくな
連中がいない。というか今まで君たち、いったい
どこにいたの?と尋ねたくなるような人ばかりが
もどってきた。
10ねんぶりくらいに見かけた顔もある。
いつだったか植田正治先生に
終戦の日、日本が負けたと聞かされて、どんな
気持ちがしました?」
問うてみたら、間髪いれずに
「そりゃ楽しかったよ。シャンペンあけた」
返されたのが印象てきだった。
そんなこんなを思いだしつつ、テラス席へ1人で
腰かけ、オレンジ色の灯かりが夜空を溶かしてく
のをながめてる。
なんといっても歩いて帰れるとこがよい。



そういえばこないだ、駅から続く坂道で。
男女がなにやら、大声あげて争ってるのだった。
女子高生だか中学生だかの制服の襟首を、夜回り
先生みたいな、スーツ姿の中年男性が掴んでる。
ふりほどかんと懸命に身をよじりながら
「ちょっと。はなしてよ」
「いや。オレは離さない」
などと言いあってるのだ。
あまりにうるさかったものだから、通りすがりに
思わず
「いいじゃないか。好きにさしてやりなよ。今が
1ばん楽しいんだから」
言ったのがまずかった。2人して、すごい勢いで
にらみつけるのだ。



くだらない経験ばかりつんでると、ついひとこと
多くなってしまう。
ほんとは、そういうことが言いたかったのである。
でも、つたわらないものだ。つくづくそう感じる。
そんなときほど
「歳をとったな」
奥歯を噛みしめない瞬間はない。心なしか目尻の
シワも、深みを増したような気すらする。
長生きしてよかった。そう思いたいのである。が
寿命が縮まったとしか感じれない。
「これこれ君たち、亀をいじめてはいけないよ」
この太郎のように他人さまに常識を説くと、命が
恐怖新聞を読んだのと同じだけ、摩滅してしまう。
紫外線や活性酸素などでは断じてなく、常識こそ
アンチ・エイジングの大敵なのである。
空気などまるで読まず、場がドン引きするような
非常識な発言ばかり繰り返してれば若くいれると
したらどうだろう?



きっとドリアン・グレイも夜な夜な出かけた先の
酒場で、こんな人生の真理を説いてまわってたに
ちがいないのである。
なぜならば真理こそが常識と非常識の波うち際に
線をひくからだ。これは鏡で確認しないわけには
いくまい。なにしろ微妙なサジ加減だろうから。



「掟によらなければ、私は罪を知らなかったろう。
生へみちびく命令こそが、私を死へみちびいてた。
罪は命令によってチャンスを設け、私をあざむき
命令によって私を殺したのだ」ローマ・7
新約聖書最大のナゾの1つ。とされるこの箇所は
人間の条件が換わるたび、問いなおされてきた。
ここでいう命令とは十戒、前述の
「しちゃいけないよ」
掟がなければ罪もないとはどういうことだろう?
新注解では
「掟イコール罪ではない。掟は不十分なのである。
掟は失敗した。掟が禁じるにもかかわらず、罪が
今日まで支配した」
とある。これはすなわち認識論だ。あれが馬だと
教えてくれなかったら馬だと気づかなかったのに。
そう言ってるに等しい。



せっかくだから仮説をたててみたいと思う。
不老不死伝説−キリスト教以前の−大陸的な思想
これは倫理を語ってるのではなかろうか。
たとえばこんな感じに。
児ポルノを見るな、と言ってはならない。幼児
ポルノを見るなと言うことこそが、幼児ポルノを
見たいという気持ちをひきおこすから。