倫理における掟としての不老不死

ナイジェルコーツのとなりに朝5じまでやってる
オープンカフェができた。
片側2車線をはさんだお向かいが24時間営業の
エネオスだ。最近は景気が悪いせいか、西麻布も
静かなもんである。平日3時をすぎると、ろくな
連中がいない。というか今まで君たち、いったい
どこにいたの?と尋ねたくなるような人ばかりが
もどってきた。
10ねんぶりくらいに見かけた顔もある。
いつだったか植田正治先生に
終戦の日、日本が負けたと聞かされて、どんな
気持ちがしました?」
問うてみたら、間髪いれずに
「そりゃ楽しかったよ。シャンペンあけた」
返されたのが印象てきだった。
そんなこんなを思いだしつつ、テラス席へ1人で
腰かけ、オレンジ色の灯かりが夜空を溶かしてく
のをながめてる。
なんといっても歩いて帰れるとこがよい。



そういえばこないだ、駅から続く坂道で。
男女がなにやら、大声あげて争ってるのだった。
女子高生だか中学生だかの制服の襟首を、夜回り
先生みたいな、スーツ姿の中年男性が掴んでる。
ふりほどかんと懸命に身をよじりながら
「ちょっと。はなしてよ」
「いや。オレは離さない」
などと言いあってるのだ。
あまりにうるさかったものだから、通りすがりに
思わず
「いいじゃないか。好きにさしてやりなよ。今が
1ばん楽しいんだから」
言ったのがまずかった。2人して、すごい勢いで
にらみつけるのだ。



くだらない経験ばかりつんでると、ついひとこと
多くなってしまう。
ほんとは、そういうことが言いたかったのである。
でも、つたわらないものだ。つくづくそう感じる。
そんなときほど
「歳をとったな」
奥歯を噛みしめない瞬間はない。心なしか目尻の
シワも、深みを増したような気すらする。
長生きしてよかった。そう思いたいのである。が
寿命が縮まったとしか感じれない。
「これこれ君たち、亀をいじめてはいけないよ」
この太郎のように他人さまに常識を説くと、命が
恐怖新聞を読んだのと同じだけ、摩滅してしまう。
紫外線や活性酸素などでは断じてなく、常識こそ
アンチ・エイジングの大敵なのである。
空気などまるで読まず、場がドン引きするような
非常識な発言ばかり繰り返してれば若くいれると
したらどうだろう?



きっとドリアン・グレイも夜な夜な出かけた先の
酒場で、こんな人生の真理を説いてまわってたに
ちがいないのである。
なぜならば真理こそが常識と非常識の波うち際に
線をひくからだ。これは鏡で確認しないわけには
いくまい。なにしろ微妙なサジ加減だろうから。



「掟によらなければ、私は罪を知らなかったろう。
生へみちびく命令こそが、私を死へみちびいてた。
罪は命令によってチャンスを設け、私をあざむき
命令によって私を殺したのだ」ローマ・7
新約聖書最大のナゾの1つ。とされるこの箇所は
人間の条件が換わるたび、問いなおされてきた。
ここでいう命令とは十戒、前述の
「しちゃいけないよ」
掟がなければ罪もないとはどういうことだろう?
新注解では
「掟イコール罪ではない。掟は不十分なのである。
掟は失敗した。掟が禁じるにもかかわらず、罪が
今日まで支配した」
とある。これはすなわち認識論だ。あれが馬だと
教えてくれなかったら馬だと気づかなかったのに。
そう言ってるに等しい。



せっかくだから仮説をたててみたいと思う。
不老不死伝説−キリスト教以前の−大陸的な思想
これは倫理を語ってるのではなかろうか。
たとえばこんな感じに。
児ポルノを見るな、と言ってはならない。幼児
ポルノを見るなと言うことこそが、幼児ポルノを
見たいという気持ちをひきおこすから。