サイレント・マジョリティ
村から政治犯で逮捕者がでたらしいので思い出を
語っておきたいと思う。
なぜ10月の「犯行」なのに今このタイミングで
捕まえるの?
という感想を多く見た。
いやがらせだろう。
「21日の東京ドーム。いけなくなっちゃうよ?」
こんな感じでやんわり、脅されてるはずだ。
年末紅白カウントダウン初日の出お正月を娑婆で
過ごせなくしてやってもいいんだよ。というのは
善良な日本人にとっては、かなりの重圧だった。
「もう素人感覚じゃすまないよ。遊びでやってん
なら引き返せるのはいまのうち」
覚悟を問われてるのだ。
もっとも、覚悟したらどうなるという話でもない
のだけれど。
不当逮捕じゃないの?
沢山のひとが言ってる。
ただし、これは伝統的な左翼の歴史観からすれば
誤った問題のたてかたでしかない。
「表現の自由の範囲内か否か」や「逃亡の恐れも
ないのに…」や「通行して何が悪いんだよ」的な
話は全て、現行法をその価値基準にしてるから。
そもそも監獄を、悪いことしたひとを懲らしめて
社会復帰させるステージとしか捉えれてないから
こういう勘違いをする。
刑務所と善悪は関係ない。
塀の中とは、あくまでもそのひとを1時的に法の
保護下に置き、他の社会の成員からのいわれなき
中傷を避けるため、隔離する場でしかないのだ。
私はニュースをきいて当然だとしか思わなかった。
本人も十分に予想できてたはずだし、もしも何の
むなさわぎも覚えてなかったとしたら、政治的な
センスを疑われても仕方ないとこだ。とすら思う。
というのも巷では憲法改正
「権利と義務はセット!」
が吹き荒れてるから。
私は下地さんに1どだけ、お尋ねしたことがある。
どういうニュアンスで、きいたかは忘れたけど
たしか「あなたにとって労働とはなんですか?」
「働くってどういうこと?」
ニート感全開だったはずだ。
おこたえは
「義務ですかね(労働は)」
だった。
それをきいて私は笑ったのである。
「労働が義務だってよwww」
いまでもたまに、こころある方からお叱りを頂戴
する機会があるのだけど、私は「できることなら
のんびり、楽してくらしたい」としか思えない。
もちろん新作DVDとかショート・トレンチとか
マイアミの別荘とかを切望してやまない(野心は
ある)のだが…欲望だけが私をこの世に繋ぎとめ
といてくれてるのであって、面倒はこまる。
故障の多い中古イタリア製自動車に手をだしかね
てるのと同じで、「義務」は私にとって完全なる
謎ワードでしかないのだ。
片山さつき議員を非難するひとは、こう言ってる。
「義務を果たさない者に人権を与えないだなんて
ひとでなし」
と。
でも、権利が紐つきでなくなって、社会から何の
拘束もうけなくなって、人間が自由をかちとり
「その義務は私が私に対してだけ責任を負う義務」
になってしまうと、それはもはや義務でなく倫理
すなわち「自己責任」でしかなくなってしまう。
タバコのぽい捨てしてるひとに幾ら「自然」権を
説いてもムダなのだ。
そして仮に明日世界中の原発が停止したとしても
歴史の針はもどらない。天然と養殖の違いを議論
してるわれわれは
「自然…ってなんですか?」
な状況は変わらないのである。
私にとって「義務」が、おしつけがましい得体の
知れない脅迫であるのと同様に、片山議員にして
みれば「人権」が謎ワード。
現代人は謎ワードの奴隷だ。
かつては下地さんみたいな社会主義者こそが
「権利と義務はセット」
と言ってたのである。
これは「金持ち許すまじ」的ニュアンスだった。
そっちの方向からの反原発はムリだよ、とも思う。
少なくともいま話相手してほしがってる人たちは
「モノを盗るつもりで侵入しました。騒がれたら
殺してやろうと思ってホームセンターで包丁を…」
みたいな、本音とまではいえないがハードコアな
トークを日々きかされてるから、誰をみても
「自分にはないいきいきさを感じたのでは?」
と意地悪になってしまいがちなのであって、その
「労働は義務」も、しばらくは有閑階級の戯言と
しかとられないだろう。
聖像
家の門をでて右側、道の向こうに見える丘の上に
小さなショッピング・モールがあった。
そのころですら、ずいぶんこじんまりしてる感じ
だったのだ。いま行ってみたら、なおさらだろう。
2階だての吹き抜けな商店街が十字に組合さって
10軒づつくらい専門店が並び、真ん中には噴水。
曇りガラスの3角屋根。鋳物の手すり。
1960年代末に建てられたこのアーケードには
訪れる客たちが地球の裏側を忘れずにいれるよう
ロンドンの公園の名前がつけられてた。
同じ名の公園や施設は、あの大陸のいたるとこに
きっとまだ、あるに違いない。
危ないから絶対に家の門から外へでてはいけない。
きつく言われてたにも関わらず、たった1どだけ
歩いてったことがある。
車ならほんの数分なはずなのに、永遠につかない。
途中でなんども後悔した。
自分のほかに道ゆく人など、もちろん誰もいない。
歩道の芝生を踏みしめる足元に伝わってくるのは
4月の晴れた日の太陽だけ。あたりを見回してる
余裕なんかぜんぜんなかった。
たまに自動車が通りがかりはするものの、どんな
強盗と顔をあわせないとも限らない。恐ろしくて
目もあげれないのである。
なんでそんな無謀な真似をしたかというと、その
まえの日に、骨董店のウィンドーごしにちらっと
見かけてた金色にきらきら光る宗教画が、とても
気になって、どうにも仕方なかったからなのだ。
それは1つだけでなく、10こぐらいあった。
どれもが机の上に置いとけるサイズで、畳んだり
拡げたりできるようになってた。
いま考えてみればそれほど珍しくない、たかだか
数百年まえのイコンに過ぎないのだが、小学校で
6年になったばかりの子供には、大層な品だった。
これはね、生まれた国にいれなくなった人たちが
ここへ逃げてくる時に、僅かな家財道具と一緒に
着る物にくるんで、もちだしてきたものなんだ。
「だから私たちはここへ並べてるんだよ」
どれもが家族に代々、伝わってきたもの。
でも本当のこというとよくわからなかった。
大事なお守りだし、生きてて1どあるかないかの
絶体絶命から、実際に守ってくれてる。
なくしてしまった故郷を忘れずにいさせてくれる
たった1つの心のささえ。
どんなにお金に困っても手放してはならないもの。
そうとしか思えなかった。
子供だったのだ。いまでも思い出すたびに刃物を
つきつけられてる感じがする。
だから本当にわかってるとは言えないのだと思う。
究極的には人間は、どんなことをしてでも自由に
ならなければ、生きてくことすらできないのだ。
最も大事なものを捨て去る、自殺にも似た勇気。
そしてその勇気に向かって祈りを捧げる人の連鎖。
コーポレート・ファシズムの原風景
今年は春が遅かったせいか、夏至を控えた青空は
ただ高く、雲は陰深いのに、地上はところどころ
若草色が残り、まるでこのへんがまだ温暖化する
はるか以前、70年代の雑誌ノンノやアンアンの
グラビアで見たままのソフトフォーカスな諧調で
斧断ちの森は広がってる。
ひと月ぶりに東京を離れ、またここへやってきた
のだった。
2年まえに見た渋谷のひとたちは、怯えてた。
あきらかに皆、他人を視界に入れまいとしてた。
突然ランダムに襲ってくるかもしれない災厄から
目をそらすように、雑踏を進んでた。
今と比べればずいぶん余裕があったはずなのだ。
でも世の中はどうにもこれ以上、広がってく余地
ないみたいだった。うかつに声などかけようもの
なら、ぴしゃりとはねつけられかねない。
うすら寒さがもう、どこかにあった。
1年まえに見た人々は、先祖がえりしてた。
道ゆくのは、人情本のページからタイムスクープ
ハンティングしてきたような足運びだった。よく
「人間は行きづまると保守化する(振子の原理)」
と言うが、そんなレベルでは到底、済まされない
何かが身に染みてた。怠惰で刹那的になってた。
「お金がないんだったら、印刷したらいいだろ。
もっと色々と買えるし(物価が上がれば)借金も
なくなるし」
結構な話を聞かされたりしたのがこのころだった。
彼氏逢いたさに町に火を放つような単略さ。
もう贋金づくりは対抗文化、現代芸術、体制転覆
ではなく、だれがカラーコピー機を持ってるか?
でしかない。
大相撲で懸賞金と賭博とを混同するようなものだ。
力士や親方たちがあれほど不利な賭け(勝っても
胴元が手数料を10%徴収)にハマるのは、要は
自分が永谷園になったつもりでいれるからである。
弟子をリンチしたり、反社会勢力と繋がってたり
都合の悪いことを内緒にしてたりするのは、公益
法人として、いかがなものか。
文部科学省の役人は、そんな因縁をつけてた。
相撲協会のような戦闘集団が、共同体のなかでは
秘密結社の機能をもつ(祭祀をつかさどる。特に
暴力を見世物にすることによって民衆を死の恐怖
から解放する。この1時てきな忘却こそが先祖霊
死者を昇華し、過去を創り、明日こそ明るいから
豊かになれるに違いないと錯覚させる。それゆえ
内緒にしとかなくてはいけない秘密が沢山ある)
とは、よく言われる話。
問題は、公益法人こそが秘密結社になってきては
いまいか、という点である。日本だけではない。
世界中がそうなのだ。
アメリカでは大統領が今回の原油流出を同時多発
テロになぞらえ、事態の深刻さを執務室から直接
国民へ訴えたのだという。
なんとまあ楽観的な。
あちらと違い(注・陰謀ろんでなければ)これは
事故とはいえ、フレンドリーファイアーと同じ。
この会社の1ばんのお得意様は、合衆国の軍隊。
合衆国軍隊はこの会社から最も大量に石油を購入。
対テロ戦争における兵站、最前線から1ばん遠い
海の底深くが、自爆してる。
アメリカやイギリスのブログをあちこち探したが
どこもそこまでは書いてなかった。
というのも、みんな暗合にひそかに怯えてるから。
1説ではもはや打つ手はなく、流出をとめるには
原爆の高熱で、地形を溶かし変えるしかないとも。
唯一の(戦争での)核使用国が自らにいかづちを
落とす羽目にでもなれば、これほどの悲劇はない。
歴史的に見れば100ねん近くさかのぼってその
あいだの(勝ってたはずの)戦争も負けだろうし
そもそもこのグラウンドゼロは彗星が大爆発して
巨大さを誇ってた恐竜が滅亡した原因になったと
まで、言われてるとこなのだ。
人々が畏れてきた魔神とは記憶外の祖霊、太古の
生き残り、その形象である。古くはファーゾルト
ファフナー兄弟のように、怪物に変身する巨人族
(リボ払いで商業モールを建て続ける『建築王』に
貸し倒れる)だったり、高度成長期にはロボット
戦闘アニメ(パイルダーオン)だったりした。
これは拷問する理想「…すべきではない」という
メッセージが不安な陰を落とし、実体化したもの
だとも言える。
ここでひとつ、仮説をたててみたい。
「文化は役人が旗振る段階では既にピークアウト」
コンテンツの輸出がどうの…と昨今かしましいが
実はグローバリズムの根底、最も卑俗な情操面に
巨大な影響を与えてるのは日本の子供向け文化で
その流れは、ほぼリアルタイムにシンクロしてる
(映画「真夜中のカウボーイ」)のだとしたら?
世界は単なるクソゲーにすぎない。
あの石油会社CEOは、公聴会でものらりくらり
週末はヨット遊び。インタビューでは
「オレの人生を返してくれよ」
と言ってのけた。
ふりかえってみるとわが国ではこの手の公益法人
企業のトップ、自治体の首長による失言(オレは
寝てないんだ!)に事欠かない。
でも、それを無責任と非難しても仕方ない。
菅直人総理は内閣を、「奇兵隊」と称してる。
これを、ミリシア(民兵)と例えるのが言い過ぎ
だとしても、ざっくり説明するなら内戦下の武装
勢力(陰の実力者?はラディン師のようにビデオ
メッセージで登場)と変わらない。
なによりも重要なのは、姿勢表明演説の
「サラリーマンの息子」
であろう。悪の凡庸さ。に関していうなら自分を
サラリーマンだと思ってる総統のほうが、自分を
総統だと思ってるサラリーマンよりも深刻なのだ。
1億総「無責任時代」は、この6月に完成した。
カフカは官僚社会の悪夢について書いたが、この
サラリーマン世界は輪をかけて自滅てきといえる。
法人は決して巨大な城でなく、むしろ血に飢えた
雲霞が何万匹も集まった人型であり、彼らは常に
互いを人格をもつ敵とみなし戦ってる。
「私はね、寝てないんだよ」
も
「オレは人生を取り戻したいだけなんだ!」
も、運悪く魔神の操縦を任されたメンヘルニュー
タイプの少年兵が、マシンと自らのシンクロ率の
低さを、必死に訴えてるだけなのだ。
ア・ディ・イン・ザ・ライフ
ケーブルTVを眺めてたら、ニュース解説番組に
IT長者がでてきたのだった。
曰く、次のビジネスチャンスは宇宙開発にあり。
宇宙旅行を民間ベースで採算にのせるのは無問題。
ついてはこのロケットエンジンの動画をご覧あれ。
太陽クラスの星でも重力で時空は曲がる。
ワープ航法も原理的には決して夢ではないのだ。
「もちろん宇宙人はいますよ。もしかしたらもう
地球にきてるかも。我々に見えないだけで」
NHK朝の連続ドラマが、ひさびさに人気なのだ。
この時間帯は本来、国策プロパガンダ枠である。
民主化政策における女性の社会参加を訴えるのが
目的であった。
それ故の女性のサクセスストーリー(例・おしん)
であり出勤時の朝8:15、昼食後の12:45
なのである。
旦那を送り出して1回、昼寝(または昼メロ)の
前に1ど視聴するとキクように、できてるのだ。
でも今やってる漫画家女房苦労話は、連ドラでは
なく大河(例・内助の功「篤姫」)の文法だ。
我々の祖先に首狩族の夫婦がいて、連中がいかに
野蛮な抗争をくりかえしてたか。
という話をこれまでは週に1ぺん、明日からまた
つらいお勤めの始まる憂鬱な日曜の晩に見てれば
気が収まってたのだが、もう毎朝ふりかえらねば
生きてく勇気など、出やしないのだ。
そのくらい疲弊してしまってる。
かように世の中は換わってった。
海のかなたアメリカでは、時代精神を反映してる
と好評だったドラマが2つ、最終回をむかえた。
何年もかけテロリストが計画した国家転覆の試み。
たった1日でみごと解決する公務員たち。
ただし拷問人権蹂躙裏切りその他なんでもあり。
この1日を半年かけリアルタイムでふりかえって
みましょう。1ばん運の悪いのはだれ?
というのがひとつ。
奇跡的に生き残った墜落した飛行機の乗客たちが
デカメロンみたく思い出話をくりひろげる。
そこは南洋の無人島。しかし「青い珊瑚礁」とは
逆に、みんな1刻もはやく家に帰りたいのだ。
フロンティアスピリット、開拓精神の欠片もない。
起業ぐらいしたらどうなのよ。
今だったら「そんなに無理してアメリカに戻って
どうすんの。なんにもいいことないよ。しばらく
のんびりしてたら?」
ツッコまれてしまい、成立しないだろう。
もうひとつは、そんなドラマ。
すっかり、どちらも時代おくれ。
IT長者の話で感心したのは、そのパワーズオブ
テンぽい、常識を拡大したスケール観だった。
月は確かに衛星だ(アポロは特撮説はあるけど)。
観測の範囲では、太陽や木星も物体。ならきっと
銀河のどこかに…
ただ単にはなしがデカい。というのなら、例えば
この世は全て俺の脳内の想像物。世界は俺中心。
てのだって、原理的には十分に可能なはずだ。
でもそれを他人に打ち明けて、どう思われるかは
別問題。
ほんとにそうだろうか?
さきごろ辞意を表明したあの総理夫人は、実際に
UFOに搭乗し、宇宙人と面談してるのである。
少なくとも、そういう話になってる。
仮に時空を曲げるスーパーテクノな超賢い叡智の
宇宙人がこっそり、そのへんの3丁目にきてたと
しよう。彼(宇宙人A)は、誰に最初に挨拶する
だろうか?
もしかしたらそれは、南米ペルーの高原の貧しく
名もない村の羊飼いの少年かもしれない。
そして人類の未来にかかわる重大なメッセージを
のこすのである。
もっとラインが直だとしたら、オバマ大統領とか
ダボス会議の賢人だれそれ。というのもありかも。
でもくだんの少年に比べたら可能性は薄いはずだ。
鳩山の嫁をみてればわかる。いくら友愛だからと
いっても、100人いたらうち1人も、例の話を
本気で信じてやしないのだから。
もし宇宙人が何かを授けるとしたなら、この広い
地球の人口70億のうち、1番それにそぐわない
言葉をかえていうなら、第3種接近遭遇しそうに
ない代表が、あのIT長者なのである。
「じつはボク、昨日、宇宙人に…」
そう告った瞬間、もうアイスも買いにいけないに
違いない。
最も可能性が低いがゆえに、いかにしてでも自ら
率先して、宇宙を目指さねばならない。
なんと人間とは悲しく、皮肉な存在なのだろう。
開拓精神と接近遭遇はごちゃまぜにしないほうが
いいんじゃないか?と思う。もはやフロンティア
スピリッツなんてだれも信じてないのだし。
帰るべきとこもあのありさまなんだから。
メディアのあした・あしたのメディア
NHK特集「激震マスメディア」をチラ見てから
ずっと考えてた。
番組では、例によって
「TVを見ない人がふえてる」
「外国では続々と新聞社がつぶれてる」
例のごとく
「ネットの影響力は増してくだろう」
おなじみのニューメディア論がくり広げられてた。
全ての未来予測がそうであるように、これもまた
ピントが外れてると思う。
ニューエコノミーはなにかを換えたかもしれない。
でも人々の根幹までは換えれなかった。私たちは
(メディアに影響を受けてるというより)むしろ
依存してるのだ。
問題点は、大きくわけて2つ。
1)ネットと(旧来の)メディア
マスコミは限られたスペース。情報の取捨選択。
価値観の一方的な押しつけに、つながる。でも
ニコ動は記者会見をダラダラ流せる。視聴者は
膨大な情報量の中から「自分にふさわしい物を」
選びとってけばいい(インタラクティブ)。
実は本人たちが思ってるほど、両者は違わない。
私たちが出勤前、めざましTVにチャンネルを
あわせるとき、特別なにかを期待してはいない。
もしかしたら番組の途中で、それほど私が好き
じゃないタレントの誰かが、幸せそうに結婚や
妊娠報告をするさまに、でくわすかもしれない。
そして彼らが望んでるのは単なる幸せな世の中
というより、その番組のスポンサーなトヨタに
乗り、ドコモを握り、ポン酢しょうゆをナベに
かけつつ地球が「真の意味で」平和になること。
ゴダールが書いてるように、007映画を見る
私たちは商習慣や女のクドキかた、特定の社会
階層の人間がどの場面でどんな服を身に纏うか
を学んでるのであって、宇宙からレーザー銃で
悪者がどこを狙おうが、それはつけたしなのだ。
既に「ジェームス・ボンドの話はイライラする
くらい情報過多で複雑」だった。
身じたくをしながらトーストをかじり、4時間
番組のうち45分を流しみつつ、私たちは既に
選択を迫られており、そんな中しばしば、最も
嫌悪感を抱くものが、まぶたの裏へ焼きつく。
この2分間憎悪のおかげでそのひ1日どんなに
つらいことがあっても、人前で包丁を振り回し
暴れずにすむ。これを依存とよぶ。
ゆえに
2)滞在時間が少なくなった=影響力が減った。
も、必ずしも結びつかない。
ジャストタイミングで薄型スクリーンを起動し
「その」15秒のサウンドバイトにだけ反応し
スーパーへ走ってくれるひとが、1番よいお客
なのには、代わりない。
これら2つは、たがいを打ち消しあってしまう。
だから同時に見ると、問題点に思えなくなって
しまうのだ。マスメディアのビジネスモデルは
江戸から変わってない。それは、大相撲である。
まっ昼間っからダラダラ、ワイドショーみたく
やってるけど、勝負のつくのはコンマなん秒か
だいじなとこは電光石火なアレと。
ネットサーフィンをしてると時々、よくもまぁ
こんなひとが、今どきの教壇にたてるもんだと
いう、学者の書いた幼稚な文章に、辟易する。
他人が与えくれた課題のでき不出来は別として
表現力のレベルでは、確実に現代人の質は低下
してる。残念ながら逃げみちはない。私たちは
どんどん下らなくなった。ネットが更に門戸を
ひらいた。ずっと
「量が質にかわる」
聞かされつづけてきた。ところが話は逆だった。
たくさん集めるとハードルがさがるのだ。
ある意味、ネットのおかげで(制作費が減って)
TVその他の質が落ちたのは、ご存知の通り。
こうしてみると、ネットと旧来のメディアとは
番組の中で誰かが力説してた「別の世界」でも
対抗文化でもなく、身体同士の関係だとわかる。
質が高ければ影響力を増す、というのも立派な
思いこみだ。不純物の多い麻薬ほどやめれない。
理由あって純粋ななにかを避け続けてきたのも
これまた私たちなのだし。
ネットは社会構造を換えたかもしれない。でも
社会そのものはかわんなかった。
イデオロギーとは、なにをやってるかであって
なにを考えてるか?ではないのだ。
これは(最近はじめた)ツイッターにちょっと
だけ書いたから繰り替えさないけど、近ごろの
エンターテイメントスクールとやらで、お笑い
芸人志望の若者の耳に、どんだけ崇高な訓話を
注ぎ込んでるか、おそらく大半のひとがこしを
ぬかすに違いない(私は笑いがとめれなかった)。
彼らは(ビートたけしのような)コメディアン
ではなく、古きよき幇間を養成してるのだ。
かたや電脳空間にはびこる「ネット言論」では
旧ソ連の生んだ3流社会主義リアリズムまんま
(但し舞台は民主主義)な世界がひろがってる。
シュクシーン「私は信じる」の登場人物たちは
だれ1人、共産主義を信じてない。というより
共産主義は「信じるべきものではない」のだ。
ではなにを信じてるのか。
「奇跡を信じてる」
なぜなら「奇跡だけが客観的だから」。
そして共産主義は、信仰の対象では決してなく
「永遠に検証され、議論されてくべきもの」
なのである。
マスメディアはバラエティ化をやめないだろう。
質が落ちるほど影響力は増してくに違いない。
、
あの素晴らしい愛
68年の性革命。その後80年代に絶頂を迎えた
恋愛至上主義。これらの夢が潰えた地点が、あの
高原のコテージだったとは。
社会不正や差別について少しでも真面目に考えた
経験のある者たちは、同じ壁へ突き当たってた。
そもそもは女を、消費財として交換することから
始まってるわけだからして、王さまの首を切った
ところで、根源的な解決には繋がりそうにない。
世界を換えるにはまず、意識を変革せねばならず
そのための最も適切でかつ平和的、皆から賛同を
得れそうな手段こそが、家族制度のリモデリング
だったのである。
男女は平等とされ、互いの合意をもって結びつく。
とはいうもののこれは、平等を得るために自由と
勝手に任せるという、逆説を孕んだイデオロギー
であって、サブプライムと同じ問題点を抱えてた。
1)家を持てない貧乏人を、この世からなくそう。
これが証券化バブルの建て前だった。
愛情というルールは、万人に適用可能だろうか。
2)食後の皿洗いや育児の負担などが「価値観の
相違」概念で語られるようになった。
お隣が格安の空き家だったら引っ越すべきなのか。
新自由主義が性革命に代表される左翼運動の帰結
だとしたら、証券化バブルの破綻とは、これまで
40年に亘って私たちに影響を及ぼしてきた文化
コードの終焉でもあって、あの歌を口ずさむ者は
もういない。
「必要とされなくなった」
とは、単に売上げがおちたとか新たなメディアの
誕生。では説明しきれない、深刻な話だったのだ。
誤解はどこにあったのだろう。
普通に考えるなら、
封建的だった家族制度を脱神秘化するには、その
1番の神秘「性」を解放すればいい。
科学や理性が我らを導く。
合理的なカップルが大量生産され、それに応じて
世界もまた、正気をとりもどしてくだろう。
好きでつがいになったんだし、納得いくとこまで
コミュニケーションで解決すべき。
なはずだった。
だが性解放のためには「愛の賛歌」が必要とされ
(でないと乱交と見分けがつかなくなってしまう)
にもかかわらず生まれたのは、合理的な結びつき
というより性の合理化(売春を「援交」ある種の
アセスメントとよぶ感覚に似た何か)と、そして
「賛歌」を永遠に歌ってなくてはならない義務の
2つでしかなかった。
この歌こそがある日を境に、呪いへと変換されて
しまったのだが。
68年が確かに革命だったのは、意識変容に伴う
1瞬のユートピア形成にある。
ほんのつかのま、それこそ1夜かぎりだったかも
しれないけど、手あたり次第にヤリまくってれば
それが愛だった。悩みなく愛と性とが直結できた
人間革命な瞬間があったのだ。
もう決してやってこないし、だからこそ人は
「もう1ど」
と歌うのだろうし、革命に殉ずるとは歌に殉ずる
ことでもあるのだろうけど。
ほんとのことを言うと、いつしか「愛の賛歌」に
冷めてしまってた。
「昭和の大ヒットBEST100」
なんかをTVで見ても、別のメンタリティ、別の
民族、奇妙な客観性で己を鼓舞してるようにしか
聞こえない。
「よこはま、たそがれ」
が、風景を発見した国木田独歩より遠く感じる。
この恋愛レボリューションの失敗ばかりが目立つ
ようになってしまってた。
最大の敗因は、常にその結果である。
物ごころついた私の過ごしてきた革命後の東京は
既に巨大な人肉市場であって、特に彼らの生産物
ジュニアとよばれる子供の世代がひどかった。
順当にいくならラブチャイルドたちは立派な愛の
伝道師や継承者になってるはずだった。
しかし次世代に襷を繋ぐのが上手くいった例など
ないともいえる。
性革命の、優生学的な側面も否定できない。
生まれてきたのは完全な商品にしか見えなかった。
お互いの価値観について誰かと話す前に、自分の
価値を誰かに査定してもらわねばならない。
ある者はセカイへ閉じこもり、ある者は自分探し、
おしきせの理想や正義感に、病理的自己愛ゆえに
自らを重ねあわすことでしか、表現の手段がない
者たちもたくさんいた。
そして何よりも、これほど多くの人が
「私は男か女か?」
に束縛されるようになった。
これは解放とは、ほど遠い。
2003年に形見分けしてもらった日記の1節に
ありし日の加藤和彦が登場してるのに気がついた。
1974年の9月1日だから、ちょうど「黒船」
レコーディング直後。世界中誰もが認めるだろう
キャリアの絶頂期。
この日記の書き手は、当時30代半ばの女性。
2年の予定でイタリアへ男あさりに来てて、今で
いうとこのイエローキャブの元祖のようなもの。
彼女のもとを友人だったミカとトノバンが訪れた
のである。
以下はその抜粋
『1日(ローマ)
朝、11時にミカとトノバンを飛行場まで送った。
(昨日4人で泊まったミカの部屋は1晩4万円)
ミカはスパゲッティが美味しいとばかり繰り返す。
そして「あたしはもう、東京になんかいたくない」
ぽろりと付け加えた。
どういうことなのか問いただすと、なんでもまた
ロンドンにいるとかいう男に惚れてる。この間は
相当なとこまでつっこんで、いろいろと話したの。
再来月にでもまた、絶対にイタリアへ来るから。
そしてこんどはしばらくいるから、と言う。
トノバンは「もう金輪際、東京を離れるのはイヤ。
日本にない物を買って帰れば楽しく、それで満足」
と。
一方のミカは「あたしはもうなにもかもいらない。
洋服だってほしくない。だいたいそんなの…」
駅まで行って4000リラのペンションに泊まる。』
最後に見かけたのは六本木で10年前にもなるが
基本的にはこういう人だったと思う。
安価→アタックNO.2
赤坂「MUGEN」がオープンしたばかりのころ
ぼらけはじめる空に目をしばたきつつ、246−
第三京浜を経由して茅ヶ崎の家へ帰るまでの間に
すれちがう対向車線のヘッドライトの数は20も
あれば多いほうだった。
「今朝はまたずいぶん混んでるんだな」と思った。
そういう話を聞いたことがある。
去年のいまじぶんは、こんな夢を見てたのだった。
クラフトワークが来てるというので渋公へいそぐ。
だが、途中の骨董通りも宮益坂もだれもいない。
会場に入っても、関係者席に知った顔が数名だけ。
一瞬ここは自由が丘ヒカリ座でむしろ始まるのは
「ジェニファー・ウエルズのセックス・キラー」
だったら?そんなサバービア感に襲われてしまう。
とはいうもののコンサートは、つつがなく終わり
調子にのって山手線で、どこぞへ遊びにいこうと
してるらしいのだが、これまた車内はガラガラだ。
映画「バック・トウ・ザ・フューチャー」で丁度
このころから50年代へとタイム・スリップした
マーティは名前を失う。正確には自身の同一性を
カルバン・クラインと交換する。行った先の時代
精神からしてみれば彼は、だれでもないばかりか
平行宇宙可能世界のいずれかに出現したクリント
イーストウッドの分身A。としか映ってないのだ。
セレブだけ残し、あとは中性子にやられちまった。
一般ピープルの存在しえなくなった80年代東京。
または単に、この私の視覚が市井を認識できなく
なっただけ。
からっぽのスタジアム観客席へ手をふるメキシコ
サッカー選手をBSニュースで見て、あれこそは
疫病の蔓延した光景だったのだ、と気がついた。
ひごろ我々は「おもいっきりTV」の仕込主婦に
だまされてばかりいる。
まぁしかしあんな素直に笑ってるけど、ホントに
痩せんのかしら?
てっきり高みの見物をしてるつもりだったのだが
じつはしっかり巻きこまれてしまってる。だれも
自分がそう信じてるほど、現実を客観しておらず
すべてに感染の危険がある。安全な場所などない。
翌日のスーパーのカゴには、身に覚えがないのに
いつのまにかバナナが入ってると、ようやくバー
コードリーダーの燐光が諭してくれるのだ。
砂漠に描かれた全長100Mにならんとする巨大
ハチドリ画像や収穫期の小麦畑にある朝、現れる
謎の円形模様。
これらは天空の神々と交信してると言われてきた。
要はネットと現実の区別がついてない、夢と生の
あやふやな我々の、直系ご先祖さまに他ならない。
似たような文明の空気を吸ってるのだ。
己をクールな傍観者、唯物論の消費者、客観的な
科学者と思い込むほど、静止軌道上から見つめる
眼は過酷さをまし、ペストのように同一性を人間
解体してしまう。サッカーボールのルーツはあの
バモイドオキ神が斬りおとした太陽の表象である。
ゆえに球技においてはさわってはならなかったり
棒でうたねばならなかったり、穴にいれなくては
ならなかったりする訳だ。もともとが「感染」に
まつわるゴタゴタをゲーム化したものなのだから。
おりしもわが国では、学園対抗試合に優勝したら
部活動のコーチの先生が吸血鬼カミーュのように
胸をはだけ、ついでにブラもとって、おっぱいを
みんなに見してくれる(ごほうび)という映画が
封切されたばかりの春だった。
バレーボールは数あるなかで、最も実力に加えて
試合の流れ、場のいきおい、すなわち流行に左右
されやすい球技なのだという(ソースはTBS)。
だからしてみなさんの応援が大事なのだから必ず
チャンネルをあわしてください。みたいなことを
毎年いわれ、煽られてたのだ。ひどい話だ。
これほどギリギリ感を演出してるスポーツはない。
ふれたか触れないか、競ってるのは「瞬間」だ。
自分のモノだとして球を抱え込むなどもっての外。
このひとたちに加え、関西神戸地区でごく初期の
感染者とされたのが、キオスクの販売員だった。
ごぞんじの通り、彼らは世界1暗算の得意な等価
交換のエキスパートだ。我々の望む、実体経済に
おける最も効率的な市場のモデルケースが、通勤
電車のプラットフォームへ具現化されたものこそ
極小スペース、豊富な品ぞろえ、バレーボールを
打ちあうかのように迅速につり銭を還してよこす
キオスクである。
部員も販売員も、接触の素早さという点に関して
いうなら、リスクは極めて少ないグループに入る。
だからもうダメだと思った。すくなくとも会社の
ゲートで、感熱センサーをもってスキャンしたり
それと気づいてから慌てて防護服に身を包んだり
してもムダ。すでに遅い。反対に
「どこかでだれかが感染パーティをしてる?」
のような都市伝説に怯えるのもバカげてる。実際
やってみたところで、期待した効果は得れない。
どんな服を着ようか。どこの店やで何の酒を注文
したらいいのか。どの音楽の話をだれにするのか。
どれほど我々は成功してきたろうか。にもまして
そんなことばかりにかまけてきたのに、いまさら
流行を予防しようというのだ。
起源は絶対に見つからないだろう。
だれかが最初にこの国へ持ち込んだか、感染した。
事実として確実にあるはずだ。しかしできごとは
いつも、手をすりぬけてしまう。気がついた時は
ひろがってる。もう歴史で、事実とはちがう。
たとえば南京大虐殺等の事件をめぐる論戦対立も
典型的な時代の病だったりする。
モラルをもって、史実を事実と説くのはもちろん
正しいのだが−決定的な理由が見つからないから
そののちの「数」が問題とされる。ゆえに愚行を
とめるすべはなく−結局やってることは中学校の
庭に机を477個ならべてるのと変わらないのだ。