聖像

家の門をでて右側、道の向こうに見える丘の上に
小さなショッピング・モールがあった。
そのころですら、ずいぶんこじんまりしてる感じ
だったのだ。いま行ってみたら、なおさらだろう。
2階だての吹き抜けな商店街が十字に組合さって
10軒づつくらい専門店が並び、真ん中には噴水。
曇りガラスの3角屋根。鋳物の手すり。
1960年代末に建てられたこのアーケードには
訪れる客たちが地球の裏側を忘れずにいれるよう
ロンドンの公園の名前がつけられてた。
同じ名の公園や施設は、あの大陸のいたるとこに
きっとまだ、あるに違いない。



危ないから絶対に家の門から外へでてはいけない。
きつく言われてたにも関わらず、たった1どだけ
歩いてったことがある。
車ならほんの数分なはずなのに、永遠につかない。
途中でなんども後悔した。
自分のほかに道ゆく人など、もちろん誰もいない。
歩道の芝生を踏みしめる足元に伝わってくるのは
4月の晴れた日の太陽だけ。あたりを見回してる
余裕なんかぜんぜんなかった。
たまに自動車が通りがかりはするものの、どんな
強盗と顔をあわせないとも限らない。恐ろしくて
目もあげれないのである。
なんでそんな無謀な真似をしたかというと、その
まえの日に、骨董店のウィンドーごしにちらっと
見かけてた金色にきらきら光る宗教画が、とても
気になって、どうにも仕方なかったからなのだ。



それは1つだけでなく、10こぐらいあった。
どれもが机の上に置いとけるサイズで、畳んだり
拡げたりできるようになってた。
いま考えてみればそれほど珍しくない、たかだか
数百年まえのイコンに過ぎないのだが、小学校で
6年になったばかりの子供には、大層な品だった。
これはね、生まれた国にいれなくなった人たちが
ここへ逃げてくる時に、僅かな家財道具と一緒に
着る物にくるんで、もちだしてきたものなんだ。
「だから私たちはここへ並べてるんだよ」



どれもが家族に代々、伝わってきたもの。
でも本当のこというとよくわからなかった。
大事なお守りだし、生きてて1どあるかないかの
絶体絶命から、実際に守ってくれてる。
なくしてしまった故郷を忘れずにいさせてくれる
たった1つの心のささえ。
どんなにお金に困っても手放してはならないもの。
そうとしか思えなかった。
子供だったのだ。いまでも思い出すたびに刃物を
つきつけられてる感じがする。
だから本当にわかってるとは言えないのだと思う。
究極的には人間は、どんなことをしてでも自由に
ならなければ、生きてくことすらできないのだ。



最も大事なものを捨て去る、自殺にも似た勇気。
そしてその勇気に向かって祈りを捧げる人の連鎖。