安価→アタックNO.2

赤坂「MUGEN」がオープンしたばかりのころ
ぼらけはじめる空に目をしばたきつつ、246−
第三京浜を経由して茅ヶ崎の家へ帰るまでの間に
すれちがう対向車線のヘッドライトの数は20も
あれば多いほうだった。
「今朝はまたずいぶん混んでるんだな」と思った。
そういう話を聞いたことがある。



去年のいまじぶんは、こんな夢を見てたのだった。
クラフトワークが来てるというので渋公へいそぐ。
だが、途中の骨董通り宮益坂もだれもいない。
会場に入っても、関係者席に知った顔が数名だけ。
一瞬ここは自由が丘ヒカリ座でむしろ始まるのは
「ジェニファー・ウエルズのセックス・キラー」
だったら?そんなサバービア感に襲われてしまう。



とはいうもののコンサートは、つつがなく終わり
調子にのって山手線で、どこぞへ遊びにいこうと
してるらしいのだが、これまた車内はガラガラだ。
映画「バック・トウ・ザ・フューチャー」で丁度
このころから50年代へとタイム・スリップした
マーティは名前を失う。正確には自身の同一性を
カルバン・クラインと交換する。行った先の時代
精神からしてみれば彼は、だれでもないばかりか
平行宇宙可能世界のいずれかに出現したクリント
イーストウッドの分身A。としか映ってないのだ。



セレブだけ残し、あとは中性子にやられちまった。
一般ピープルの存在しえなくなった80年代東京。
または単に、この私の視覚が市井を認識できなく
なっただけ。
からっぽのスタジアム観客席へ手をふるメキシコ
サッカー選手をBSニュースで見て、あれこそは
疫病の蔓延した光景だったのだ、と気がついた。
ひごろ我々は「おもいっきりTV」の仕込主婦に
だまされてばかりいる。
まぁしかしあんな素直に笑ってるけど、ホントに
痩せんのかしら?
てっきり高みの見物をしてるつもりだったのだが
じつはしっかり巻きこまれてしまってる。だれも
自分がそう信じてるほど、現実を客観しておらず
すべてに感染の危険がある。安全な場所などない。
翌日のスーパーのカゴには、身に覚えがないのに
いつのまにかバナナが入ってると、ようやくバー
コードリーダーの燐光が諭してくれるのだ。



砂漠に描かれた全長100Mにならんとする巨大
ハチドリ画像や収穫期の小麦畑にある朝、現れる
謎の円形模様。
これらは天空の神々と交信してると言われてきた。
要はネットと現実の区別がついてない、夢と生の
あやふやな我々の、直系ご先祖さまに他ならない。
似たような文明の空気を吸ってるのだ。
己をクールな傍観者、唯物論の消費者、客観的な
科学者と思い込むほど、静止軌道上から見つめる
眼は過酷さをまし、ペストのように同一性を人間
解体してしまう。サッカーボールのルーツはあの
バモイドオキ神が斬りおとした太陽の表象である。
ゆえに球技においてはさわってはならなかったり
棒でうたねばならなかったり、穴にいれなくては
ならなかったりする訳だ。もともとが「感染」に
まつわるゴタゴタをゲーム化したものなのだから。



おりしもわが国では、学園対抗試合に優勝したら
部活動のコーチの先生が吸血鬼カミーュのように
胸をはだけ、ついでにブラもとって、おっぱいを
みんなに見してくれる(ごほうび)という映画が
封切されたばかりの春だった。
バレーボールは数あるなかで、最も実力に加えて
試合の流れ、場のいきおい、すなわち流行に左右
されやすい球技なのだという(ソースはTBS)。
からしてみなさんの応援が大事なのだから必ず
チャンネルをあわしてください。みたいなことを
毎年いわれ、煽られてたのだ。ひどい話だ。
これほどギリギリ感を演出してるスポーツはない。
ふれたか触れないか、競ってるのは「瞬間」だ。
自分のモノだとして球を抱え込むなどもっての外。



このひとたちに加え、関西神戸地区でごく初期の
感染者とされたのが、キオスクの販売員だった。
ごぞんじの通り、彼らは世界1暗算の得意な等価
交換のエキスパートだ。我々の望む、実体経済
おける最も効率的な市場のモデルケースが、通勤
電車のプラットフォームへ具現化されたものこそ
極小スペース、豊富な品ぞろえ、バレーボールを
打ちあうかのように迅速につり銭を還してよこす
キオスクである。
部員も販売員も、接触の素早さという点に関して
いうなら、リスクは極めて少ないグループに入る。



だからもうダメだと思った。すくなくとも会社の
ゲートで、感熱センサーをもってスキャンしたり
それと気づいてから慌てて防護服に身を包んだり
してもムダ。すでに遅い。反対に
「どこかでだれかが感染パーティをしてる?」
のような都市伝説に怯えるのもバカげてる。実際
やってみたところで、期待した効果は得れない。
どんな服を着ようか。どこの店やで何の酒を注文
したらいいのか。どの音楽の話をだれにするのか。
どれほど我々は成功してきたろうか。にもまして
そんなことばかりにかまけてきたのに、いまさら
流行を予防しようというのだ。



起源は絶対に見つからないだろう。
だれかが最初にこの国へ持ち込んだか、感染した。
事実として確実にあるはずだ。しかしできごとは
いつも、手をすりぬけてしまう。気がついた時は
ひろがってる。もう歴史で、事実とはちがう。
たとえば南京大虐殺等の事件をめぐる論戦対立も
典型的な時代の病だったりする。
モラルをもって、史実を事実と説くのはもちろん
正しいのだが−決定的な理由が見つからないから
そののちの「数」が問題とされる。ゆえに愚行を
とめるすべはなく−結局やってることは中学校の
庭に机を477個ならべてるのと変わらないのだ。