2015年の挑戦

なるほど女優は、時代の相貌である。
とあるTVドラマの再放送を眺めながら、そんな
ことを思ってたのだった。
最近ではBSのみならず、地上波にチャンネルを
あわせるのですら、かなりの集中力が要求される。
うっかりザッピングを忘れ、ネットサーフィンを
しながらBGMがわりに、つけっぱなしにしてる
と、気がついたら30倍に薄めて使えるまほうの
洗剤や、たった15分で別人のように変身できる
超音波腹巻や、結局ぜんぶで何キロ届くのかよく
わからない松前漬けを、押し売られてしまうのだ。



沢尻エリカは、TVショッピング顔のヒロインだ。
10年後にあべ静江ロザンナ榊原るみの座を
奪取し、黒沢年男の右腕となってても不自然とは
いえない、あの存在感。
かつてのヒロインたちのように、エリカは愛など
約束しない。
ぼやぼやしてるとなにを買わされるか、わかった
もんじゃない(実際、伝えきくとこによればそう
いう話らしいが)。ブラックカードもたちまちの
うちに溶かし、パナソニックていどの退職金なら
1レースで吸い込んでしまう、ハイレバレッジ
時代にふさわしい、牝馬なのである。



ウィキペディアによるとこの話は、なすすべなく
死んでく女の実話を基にした、人間ドラマなのだ
という。
たしかに15分に1回、CMへいくまえに大量に
粉雪が舞ったりして、かならず泣かしてくれる。
ひところ流行ったジェットコースター・ドラマの
スピード感を兼ね備えた、メロドラマ。気持ちが
弱ったときには、これほど適切な環境もない。
人生に疲れたあなたに、ぜひどうぞ。
はたしてそんな、単純な解釈でいいのだろうか?



今でこそまさか、とみんな思うだろうが、ほんの
3年まえは、こんな世の中だったはずだ。
ネットにつなぐだけで、おいらまる儲け。
サービス立ち上げて広告を貼る。ワンクリックで
株式分割脆弱性?みたいな。
証券会社とオンラインで結ばれ、インデックスで
買いさえすれば資産価値が上昇したからこそあの
ワーキングプアー共も文句など言わず、大人しく
絞りとられるにまかせてたのだ。
どんな天才でも
「安値で買って高値で売ればいいんだよ」
そう言ってれば万事が済んでしまう、気楽な社会
だったからこそ、何にもできないで死ぬしかない
人間が聖の符号をもち、輝いて見える。
要は反論の余地を全く許さない、極めて悪質かつ
猥褻な、証券化資本主義のプロパガンダなのだ。



金融工学とは、いったいなんだったのか。
再びウィキぺディアを見てみると、このドラマは
原作との間に、アリバイ操作をしてるのがわかる。
実話は62年に生まれ、いざなぎ景気をへて石油
ショックを体験、あの消費社会だった80年代の
狂騒に目をそむけるように、バブル経済の絶頂に
幕をおろした人生。
ドラマは89年に生まれ、IT革命とその崩壊を
経験し、あの証券化が頂点を迎えた2005年に
身体の不調を訴え…
つまりこのドラマで涙し、癒された人はもれなく
最悪でも、2015年までは、CDSのおかげで
右肩あがりの経済成長が続くと信じれたのである。



今回の経済崩壊を語るに
「結局は未来のお金をあてにして、もってもない
のに使っちゃったんだよ。だから借金漬け」
みたいなブログエントリを、あちこちで目にする
ようになった。
ドラマの設定を17年、ずらすようなもんである。
それはきっと、半分だけ正しい。
なぜならば私たちはいつだって、明日をあてにし
生きてきたから。天上界から火を盗んできたから
人間がある。神は他者であり未来であり取引きは
成立しない。盗むしかない相手、という者がいた。
もっといってしまえば、盗みこそが本来は過去の
者たち−死霊に代表される祖先を、未来からくる
使者へと、脳内変換するカギなのだ。
金融工学がしばしばプロメテウスにたとえられる
のはそういうことだ。



未来へなにかを投げる。
そして戻ってくるのはいつも、意味である。
意味はいつだって、明日からやってくる。
ああそうだったのかと後悔する。意味とは死だ。
どんな意味ですら致命的だから。
ドラマではエリカが
「ずっと生きてて」
「生きてたい」
叫び続ける。決して渡辺淳一ドラマのように
「あたしを殺して!」
ヒスったりしない。従順なのである。
これはありがたいことだ。しかし代償は大きい。
ここで説かれてるのは生のイデオロギーでしか
ないからだ。生と死は対立しない。秋になって
最後の1葉がおち、枯れてくようなイメージで
死をとらえることこそ、病なのだ。
生の中にいつも死はある。未来からやってきて
私たちの身体を奪いさってしまう、宇宙人とは
Xチャンネル光波さえあれば、いつだって交信
可能だったのではなかろうか。個人的にはあの
ドラマこそが、豊かさを祈願するあまり、何か
とてつもない破局を、召喚してしまったような
気すらしたのだった。