一般人体欠視症

数ヵ月かけて読んでた「ぴあ」バックナンバーも
1番、面白そうな約半年ぶんを残すだけになった。
おかげで今ではマイミクさんとの
「俺ようやく映画『人喰い大統領アミン』ダウソ
できたんだけど、やっぱこの手は大スクリーンで
見たいんだよなぁ…」
「あー。だったらちょうど今、浅草の3本だてに
かかってますよ。再来月まで待てば三茶にきます。
ただし85年に要タイムトラベル」
みたいなバカ話にも、即答可能となった。もしも
アメリカ横断カルトQ・80年代選手権があれば
アリゾナあたりまでは行けそうなイキオイである。



東京へ戻ってきてからは、更に知識を補強せんと
当時のエルジャポンやホットドックプレス、JJ
PINKなどが辞書がわり。ちょっとした散歩へ
出ても西麻布にストロベリーファームがないのが
不思議でならない。とりかえしのつかないことを
してしまった。再び現実感覚をとりもどし意識が
時代にシンクロするには、約30年のリハビリが
必要にちがいないからだ。



純粋に情報の束である「ぴあ」を読んでく体験は
やはり他のどの雑誌をひもとくのと別だった。
例えば
ディジェスティフの注文1つで、おとなの女が
試される(エル・44号)」
を見てみよう。そこにはヨシエ・イナバの深紅の
ドレスに身をつつんだパメラという名のモデルが
ニューオータニ内トゥールダルジャンラウンジで
映画「『凱旋門』のバーグマンの物憂げな仕草を
気どりつつ」カルバドスのグラスを傾ける写真と
共に服の値段、店の地図、営業時間が記されてる。



これこそ先の石油ショックをうけプログレッシブ
マーケッティングが限界を迎えた後の、大量消費
社会をあらわす聖像、通称
「ファッショナブルな風景」
なのだ。同名の書籍から該当箇所をひいておこう。
「ファッションとは情報と記号の世界。いったん
そこへ入ると、人は常にその行方に敏感でないと
住民の資格を失ってしまう。
『本物』の風景、『本物』のセッティングの中に
若い女性はあらわれなくてはならない。だが彼女
自身はクラシックでなく『クラシック調』である。
つまり、ファッションになってなければならない。
ここでいうファッションとは、場面における服装
まわりにおくべき諸道具、そして身ぶりの総体だ。
彼女たちが風景ととりもつ関係はあくまでも旅の
人のそれである。対象物は未知の、見いだされる
べき何かなのだ」
ちなみにこれは、私たちの気がつかない間に血と
なり肉となり、時代精神と化してる。ごく最近も
某ブログで話題となった
「海外で暮らすという選択肢が今後あったら…」
のような設問は、その典型といってもよい。



「ぴあ」ばかり読んでた夜ごと、閉じたまぶたの
裏側で放浪ってた東京は、まるでお盆休みの早朝
5時のように、がらんと誰もいないのだった。
中性子爆弾が落ち、人だけを消し去ってしまった。
そんな東京に私、ひとりぼっち。
でも営団地下鉄は動いてるしコヤニスカッティ
時間通りに始まるしクラフトワークの来日公演も
「ぴあ」に記されてるがままに楽しめるのである。



「ぴあ」の東京。記号と情報の束へと還元された
東京。「ファッショナブルな風景」から風景だけ
抜きさった東京は、一般人というものがまるきり
いない大都会だった。
考えられる可能性は3つしかない。
1)私が稲子のように一般「人体欠視症」とでも
形容するのが適切な精神的疾患におそわれたが故
パンピーどもの姿が見えなくなってしまった。
2)この平行世界では一般人は私と、共約不可能。
すなわち原因は彼らにある。彼らは歴史に名前を
残せなかった。自らの存在のアーカイブ化に失敗
したのである。
3)そもそも過去世とはこういうもの。だったら
我々がよくいう「2090年の渋谷」的な滅亡の
ビジョンは来るべき日への警鐘でもなんでもなく
幻覚として見た過去を、その条件も含めて誤った
だけということになってしまう。



極端に審査の基準が辛い喉じまんの鐘が司る世界
とでもいったらよかろうか。