書評「お笑いと恋愛」

私ほど、軽佻浮薄な人間もいないと思ってた。
単に、流行りモノが好きなだけではない。これは
むしろ、信仰の問題ではなかろうか。
世の中には2つタイプがあって、それぞれ2つが
セットになってる。たいていの人は
できなかったこと−できること
例えば「昨日はお目にかかれず申し訳ありません」
みたいなメールを、送ってよこす。
「来週でしたら、いかがでしょうか?」
必ず、そう添えて。



でも私は有りえなかった過去に興味などないのだ。
そんな話は聞きたくない。
だいたいよく、わからくなってきてるんだし。
できる−それ以上
が、コンボだから。なんとかして、可能なことを
超えてきたい。一寸、散歩にでかけたはずなのに
途中でバーゲンにでくわし、アフガンハウンドを
買って、つれ帰ってきたい。
どうせなら毎日、このくらいの展開がほしいのだ。
いつもわくわく、キラキラしてたい。
決して強欲ではないが、貪欲だとはいえよう。
過去を魔術的瞬間と、ひきかえたのだから。



以上の世界観は喜劇に近いと薄々、気がついてた。
どこを見わたしても、気持ちよく泣かせてくれる
メロドラマの主人公ばかり。肝心の当人は悲劇を
演じてるつもりだから、よけい始末におえない。
などと思ってた先週
「The Odd One In−On Comedy
Alenka Zupancic
を読んだのだった。



筆者によると現代社会の病は、喜劇との関係を
問い直すことで、明らかになるのだという。
その代表が、ポジティブ・シンキング、ライフ
ハックのたぐいである。人は、見かけが10割。
幸せそうに見えてれば幸せ。でなければすべて
自己責任。貧乏人は、社会の犠牲というよりは
「自然に」そうなったのだ。
これがお涙ちょうだい、メロドラマの蔓延する
今の、世の中である。
「単に成功が至上命題と、化してるだけでなく
新たな『人種差別』といっても過言でない状況」
セレブvs一般人、有名vs無名
お馴染の構図。
例えば、私がどんな服を着て、なんの車に乗り
どこに住んでるかのほうが、この話を聞いてる
あなたにとっては、私のなりわいなんかよりも
ぜんぜん、重要な情報だったりする。
皆が生きざま、ライフスタイルの奴隷なのだ。
「前むきになぁれ」と呪いをかけられてるから
いつもうわべを、取り繕ってなければならない。
無理にでも明るくふるまうことを要求される中
喜劇や、お笑いの役割は換わったのだろうか?



すでに邦訳もある「リアルの倫理」で、筆者は
第1期ラカン理論の到達点、現代悲劇について
述べてた。
本作では禁断の第4期に少しだけ踏みこんでる。
この時期に言及した書籍で、英語で読めるのは
まだ数えるほどしかない。
テーマが笑いゆえ、親父ギャグとトポロジー
世界、結局はそれを語る誰もが、ドン引きされ
社会的な信用をなくしてしまう、あのポイント
オブ・ノー・リターンへ、果敢にも攻め込んで
かなくてはならないのだ。
また、メロドラマと悲劇をとりちがえる危険も
含んでおかねばならない。
そこで筆者は、クローデルではなく、古典的な
悲劇へひとまず話をさし戻し、喜劇との違いを
説いてく。



悲劇とは、欲望をもって、世の中を見る。その
やり方である。
我々がなにかを求め、満足を味わったとしよう。
満足は常に期待してたのと、どこか異なってる。
「大きかったり、小さかったり、また来るのが
遅すぎたり、速すぎたりする」
このギャップをしみじみ感じること、すなわち
欲望なのだ。
対する喜劇は、この「満足」から逆のぼりする。
「満足が、求める気持ちに及ばないのではない。
気持ちの方が反対に、満足にそぐわない」
不思議なことに、そんなつもりはぜんぜんない
にもかかわらず、われわれはいつも、結果的に
満足してしまってる。まあいいか。と納得する。
それしか術が、ないわけじゃないはずなのに。
過去を振りかえったとき感じ(させられて)る
もやもや、割りきれない想いの正体こそ
「想定すらしてなかった満足を、いつの間にか
得てしまってる」
この「異なる」という名の、過剰なのだ。



頼んでもない謎のアイテムが、4次元ポケット
から出てきて、目のまえにある。
予期せぬ過剰を表す、最も適切な例が恋愛だと
筆者はこの章を結んでる。
ノースロップ・フライも書いてるように
「喜劇とロマンスでは、物語は結婚とか恋人の
獲得の方向へ、展開する」
喜劇とは、恋愛の喜劇なのだ。
よく「2人の価値観が…」という話を耳にする。
しかしこれは本来、別れるときの台詞であって
たしかに我々は共通の趣味、食事、金銭感覚に
ついて探ったりもする。
でも条件のすりあわせが恋愛ではない。いくら
気があったからといって、踏みこえさせるには
足りはしない。それ以上の、なにかが必要だ。
「だから出会いは決して、単なる幸せの内には
おさまらない。むしろ困惑、混乱、どうしたら
いいのか、見当もつかない感情をともなう」
愛こそ予期せぬ過剰に接する、我々のやり方だ
といえよう。

 

愛は魔法だ。
すべてのマジックと同じく、タネがある。
我々はそれを、恋する2人の間に立ちはだかる
障壁のようにも感じ、相手に冷たくしてみたり
あげくの果ては、諦めたりもする。
だが筆者は、これこそがむしろ人間関係、特に
恋愛を成り立たせてるポイントだと、解釈する。
「この障壁は、例の『手が届かないから好きに
なる』ではなく、その逆で『手の届くところに
誰かを置く』役割を果たしてる」
のだという。
例えば、家同士の確執、遠距離。
2人を分かつ「条件のようなもの」が語られは
する。しかしやはり、それ以上のなにかがある。
いつまでも、どこまで話しあっても、どれだけ
見つめあっても残る、例のもやもや。
これはもとはといえば不可能だった、赤の他人
同士がなんらかの関係を持てるよう設けられた
手がかりのようなもの、なのだと。



終章で筆者は、なぜこうした誤解が起きるのか
「トラウマ」を語ることによって、説明してる。
それ以上のなにかがある。とは、これ以上先へ
進めないポイントがあるというのと、同じ。
嫌な想い出を洗いざらい、思いだしたとしても
悪夢の残る場合を、想定しとかねばならない。
見過ごしてはいないんだろうけど、それと似た
なにか、意識にすら上らなかった記憶は、思い
だすことなど不可能だから。
押入れに閉じ込められたから、閉所恐怖症です。
などとは、比べものにならない。
なにがなにと結びつくのか、誰にもわからない。
なにもないとこになにかが出現するかのように
見えたりもする。
これこそが「真の」トラウマだ。そして一般に
言われてるようなトラウマは、この正体不明の
なにかがなければ、成立しえないだろう。
「我々は、トラウマを感じるから、目を背ける
のではない。反対に、トラウマを感じれるから
目を背けてるのだ」
よくいわれるマゾヒズム(さよならだけが人生)
とは、どこが違うのだろう?



ここでこそ筆者は喜劇、お笑いを参照するよう
我々を励ましてる。その主張は明確である。
もちろん我々は、失敗をくりかえしてる。だが
「失敗をくりかえすことにすら失敗してるから
それは可能なのである。すなわち純粋な失敗の
くりかえしを邪魔するなにか、手をのばしたら
つかめそうなのに逃れ去ってしまうもやもやが
そのたびごとに必ず、出現するからだ」
おかげさまで、女王さまにムチでお仕置きして
もらったので、また明日からは、昼間は立派な
社会人の顔をして、役立たずの部下どもを叱責
できます。なんて話とは、別次元なのだ。
なぜならばこれは、因果関係を超えてるから。



そして筆者は、このなにかこそが「自分」だと
結論づける。
我々を生の苦しみから解放するなにかがもしも
あるとしたら、それは「自分」だ。瞬間ごとに
新しく、自由で、それゆえ含むとこなく過去を
見つめれるのは、他の誰でもない。
そういった意味でこそ、ジョークと自分はよく
似てるのだ。
「センスのきらめきがないとこにナンセンスは
ありえず、さらにセンスそのものが、間違いの
(失敗の)産物なのである」
そして
「真面目さ。とは喜劇を通じてしかアプローチ
できない。そうとすら言いたくなる。なぜなら
喜劇だけが我々を(セレブ、一般人のように)
構図へと還元せずに、どこでもないなにかから
自分がいつも、新たに、生まれてきてるのだと
示してる」
からである。
愛こそすべて。愛だけが自己を開示するのだと
小さな声で、つけくわえときたい。