ラディゲとシミュラクル

ブックマークに、コメントを書き散らした中で
マルトについて述べてたとこが、気になってた。
肉体の悪魔」を、ひさしぶりに読みなおす。
16の時に買った本だった。前いつ読んだのか
覚えてない。途中、ページの間にタバコの灰が
落ちてたりするから、20代で少なくとも1ど
目を通してるはずなのだが、人生のこのへんは
すっかり記憶を失ってしまってる。
マルトは19だった。
「症例ドラ」が16と聞かされた時に比べると
まあそんなもんか、と思ったりもした。



本は丁寧に、読んであった。
あちこち、印象の強かったとこにさしかかると
感慨がよみがえってくるのを感じた。
今回は特に、双方それぞれと親との関係がよく
書けてると思った。あえて異性の親はひと筆で
済ませてるあたり、じつに見事だ。
マルトの描写については、ひょっとして作者は
女を、よく知ってないんじゃないか?と疑って
しまう箇所も1つ、発見したりしたが、しかし
そんなこと指摘してみたところでなんになろう。
私だって女の気持ちなど、何もわかってないに
等しいのだ。
「若菜」で作者が朧月夜をして
「らうらうしく」
と書くようなものだ。男としてはつい
「まさか。無理むり」
と笑ってしまいそうだが、これは悪口なのだし
それでいい訳だ。真実かどうかが賭けられてる
のではない。シミュラクルの問題なのだ。



コクトーが伝えるとこによれば
「夜、動物園の脇を通って家へ急ぐとき」
檻の中から聞こえてくる吠え声に、心の底から
おびえてたというラディゲ。
「つまり子供だったのだ」
と彼は結んでるが、要はこれは世の中、本物か
ニセモノか、いずれかのチョイスしかなかった
ということである。ネタもベタもなかった。
だからこそ、神の兵隊が実際に現象面において
復讐しにやってきたのだ。



なんとなく今年はじまったあたりから
「とうとう、第2の思春期がはじまったかな…」
などとひそかに、思ったりもしてたものだから
これは衝撃だった。
そんなころが、この私にもあったのだろうか?
夜遊びがぐずぐず、きりあげれず明るくなって
朝日が眩しくて、わが身が灰になったとしても
誰にも文句の言えなさそうな、最近の私にも?
いつだったかの夏休み、向かいの山の麓にある
スエーデン・ハウスから、懐中電灯だけ持って
テニスコートを抜け、ここまで帰ってきた夜は
たしかに闇が、怖かった。
カラ松にまじって、ところどころにそびえてる
白樺へ光がとどき、ぼうっと浮かびあがるたび
肝をひやしてたのだった。
頭上に星が輝いてるのなんて知らなかったのだ。