戦争機械としてのパタフィジック

西鶴ボードレールを結んだ直線を延ばした所に
この私は、いるのだった。
自身も「射て見たが何の根も」と回想したように
40になってすら、ぐうたらな遊び人のまんまで
ひと晩で25000句を吟じたと伝えられる西鶴
そしてジュール・ムケが「ラテン詩」で指摘した
「まず、どんな題でもかまわずに」流暢な韻文を
1000行も書いてみせたという、ボードレール
今になおせばラップのようなものだよ。みたいな
解釈をネットのあちこちで見かけるが全然、違う。
たしかにそれらは「存在の誇示」なのだ。しかし
1)なんのために?
2)いかようにして(そんなことが可能に)?
この2点が語られてない。



美術におけるオリジナリティとは、特異点の探求
そして把握に他ならない。
あれはなんのコンサートだったか、思い出せない
のが悔しくてならないのだが、関係者席で珍しく
同伴状態だった坂本龍一を、目撃したことがある。
あんのじょう愛妻に
「アンタはねぇ、難しく考えすぎっからダメなの。
ビートルズなんて『ド・ミ・ソ』じゃないの!」
思いきし背中を、どやしつけられてるのだった。
リンゴだったり、OLだったり、マリアだったり
素材は平凡なものなのだ。平凡であればあるだけ
遠くまでとどく。いかにして凡庸におちいらずに
平凡のままいるか、が問われてるのだ。さらには
特異点であるからして1瞬でも、世界をおのれの
胸にだかねばならない。錯覚でも、幻影でもいい
「世界は、ぼくのものなのだ!」
と叫ばねばならない。



それは、自己像を再発見することでもある。
なぜならば、決まったルールなど、どこにもなく
それぞれが自分だけの世界観をもたねばならない。
ナンバー1よりオンリー1とは、きっとそういう
ことなのだ。だからここから先は、私だけの話を
したいと思う。



カンのいい人はもう当然、気がついてるだろうが
そろそろ1年にもなろうとしてる、このブログの
どこでもいい、お手持ちのマウスで全文をコピー
そしてメモ張にでも、貼り付けてみてもらいたい。
あいにくこの「はてな」は字組みがきたないので
これまで、それっぽい雰囲気しか伝えれずにいた
が、この点ミクシィは明確である。
1行のすべてが22字で、さらには末尾で単語が
きれてないことが、確認できるはずだ。ほんとは
この状況でも、カタカナ、ひらがな、漢字などの
映りぐあいを鑑みて、もっとバランスよく弄れる
のだが試みてない。通常は女子高生がケータイで
メールを打つように、速さだけを優先してるから。



私はこれを2001年ごろからやってる。そして
今んとこ、こんなデラシネな遊びに嵌ってるのは
私だけだ。私が1番、はやかったのである。
もちろん、間違いなく似たようなことを考えてた
ひとはいる。たとえば大村しげ。
「京のおばんざい・暮しの設計NO.133」を
ひとめ見れば、異様さがわかる。わからなければ
同シリーズのどれとでも比べるといい。みごとな
テンションの高さだ。きっと現場は地獄そのもの
デザイナーはさぞ大変だったろう。
私ほど厳密ではない。時代も求められてるものも
別だったから。
これら先行者と私をわける、たった1つの分水嶺
とはいうまでもない、デジタルテクノロジーだ。
美学ではなく、機能から。
必要にせまられて仕方なく、やってるのである。



鏡花のように、ほっとくとひろってきた箸袋でも
楽しそうに読んでる私にとって、IT革命は人生
最大の危機であり、またビッグチャンスだった。
エルサレムや、ダブリンや、ブエノスアイレス
これまで考えれなかった世界中から、続々と本や
雑誌が届きはじめた。
10年まえだったら、目録にたよるしかなかった。
つまり結局はプレミアムを払って、ということは
稀覯本を買うしか、道がなかったのだ。
画家がキャンベルのスープ缶を描いてるってのに
それはないだろ、て感じだった。
さらにはディスプレイ上にも、面白そうな文字が
ならびはじめた。
単純に比較して革命後、読んどく活字量はざっと
1000倍。おまけに1部は透過光である。



「なぜネットには頭のいい人は書かないのか?」
みたいな疑問がようやく、ちらほら見かけられる
ようになった。
ごく初期のワープロで作られた本から収集してる
私にとって、それは、いわずもがなでしかない。
透過光は意識へ食いつきがいいのだ。裏を返すと
どんな下劣な理屈でも、ディスプレイでは光って
みえる。ポルノや広告、プロパガンダと透過光は
親和性が高い。頭がいい人が書かないのではなく
本当に頭がいい人でも、アウトプットしたとたん
社畜になってしまうのである。マリファナを吸い
ブラウンもきめて週プレを眺めてるようなもんで
批判力および自己解析力を、失わせてしまうのだ。
早急に解決すべき、相反する問題があった。
1)これまで以上の読書をこなすため、とにかく
速く読めること
行末尾で単語がきれてる可能性のある文章と比べ
時間内に処理できる情報量は約3倍である。
2)反対に、ディスプレイを見てようと思ったら
何時間でもそのまま、眼をとめてられること
論理的破綻を読むにはこれしかない。それゆえに
「千夜千冊」は不十分である。俳諧ではあいだや
余計が省略されたりはしない。むしろ矢数だけが
行間をたちあがらせる。そう言ってもいいほどだ。




なによりも嬉しい誤算は私が自由になれたことだ。
この世界観は、私を解放してくれた。
最近では、どんな新刊を宣伝されても
「ふうん。また新しい古文書が解読されたのね」
としか思えなくなってしまってる。
昔、和本を読むのにずいぶん苦労したものだった。
全く同じ苦労を、すべての印刷物、例えば朝刊を
ななめ読むときですら、感じてる。
「なになに『私と同じ喜びを味わったことがあ−
るか』?ああなんだ『あるか』て書いてあんのね」
こんなして、意識がとぎれてしまう。
どこへいくにも、本を手放さなかったボルヘス
列車の中でも読み続け、トンネルをぬけた瞬間に
これから先は、誰かに朗読してもらうしかすべが
なくなったように。
宿命が、この私にも襲いかかってきたのである。



そんな私にとって、パタフィジックとはノウハウ
つまりライフ・ハックを意味する。
あちこち見たが、どこのライフ・ハックの定義も
間違ってる。
ライフ・ハックとはいってみれば
「手抜きお掃除術」
新しいダイソンを、売りつけたりしてはならない。
なにかを付け加えるのではなく、むしろ減算する
ことによって、苦しみから救わねばならないから。
解放とはより以上の重荷を背負わせたりはしない。
さらにはそれは、これまでの世界のありかたすら
かえてしまう、なにかを持ってなければならない。
貧しくなる方向でのパラダイム・チェンジ。
これは小説というジャンルが、過去数100年に
わたって取り組んできたことでもある。
しかし三島由紀夫をみてみよう。彼は書くまえに
六法全書を読み、頭の中のフラッシュメモリーを
いっぱいにしてから、取りかかったのだ。
かたやパタフィジックではそんな努力は必要ない。
ブログを書くに際して、ヘーゲルをひもといたり
終わってからアリストテレスでスキャンをかけて
構造を確認したりなんか、もうしなくていいのだ。
だってそもそも全然ムダなんだから。
写本と活版では、使われてる論理が違う。
それを凌駕するなにかが今、あなたの目のまえで
はじまってるのである。