セソーラス西麻布1991

Midas2008-04-06


2月3日発行の、隔月「西麻布・太陽新聞」より。
『某老舗クラブ閉店!?』
−ついさっき、1丁目のホルモン飲み屋で小耳に
はさんだんですが…そういえば昔結婚パーティも
ありました。ホントになくなっちゃうの!?−
刷りモノではこれが1番、速かったのだと思う。
3月いっぱいで、ビル取り壊しに伴い、閉店だと
いう話だった。



昨日と違って、街はがらんとしてる
花見の客も今年、最後なのだろう。全員20代の
勤め人グループ数組が、ゴザをひろげてるだけ。
屋台前のテーブルは、ほぼ満員だが言ってみれば
日曜でもやってる臨時、野外バーみたいなもの。
ヒマ潰しに来てる、このへんの連中ばかり。
かおたんラーメン入り口には、旦那が椅子だして
手持ちぶたさで、たまに通りがかる人を窺ってる。
そんな月曜になりかけの夜。



どこへも行くあてもないのに、なぜか外にいた。
空気はぬるく、さっきまで冬だったことなど、皆
とうに忘れてしまってる。



あらためて訪れてみると、壁に貼られた看板文字
セソーラスの「セ」が、すでに1部欠け、即席に
廃墟化してる。たった1週間で、第3ローマ帝国
遺跡が出現したかのようだ。



イエローは1991年12月12日にオープンし
16年ちょっと続いた。この手では長い方だろう。
ちょうど前回のバブル崩壊から世紀末をはさんで
サブプライム津波までを、受けもった恰好になる。
顔をあげると、この「シリン」前こそが、墓地の
丘をゆるやかに昇ってき、そして天上へと向かう
参道の延長線なのだと、思いしらされる。
いったい人びとはこの期間というもの、いかなる
悪霊をはらわんとして、踊りあかしてたのだろう。
途方にくれつつ、そんなことを考えてた。



ウチのマッキントッシュ・プラス側面にぺたんと
はりついてる、青色の関係者用シールの日づけは
12/19としてある。
しかしこれは92年のもの、なはずだ。
何たって91年のクリスマスには、死ぬことしか
考えてなかったのだから。
それに開店してしばらくは、こんなステッカーを
服につけなくとも、適当な挨拶さえ、できてれば
どこぞの本屋へ入るのと、変わらなかった。
つまり関係者を選別し始めた92年末が、絶頂期
だったことになる。
実際、翌93年になると(今ではありえない話だ)
カピトリーノ前へ車を停めといて、2時を回れば
バー青山へ流れてた。
明るくなるまでいれないクラブはクラブではない。
要はこの頃、イエローはイベントやってる大バコ
渋谷のライブハウス並みのレベルまで、堕ちてた
のである。



いち早く真空管でハウスを鳴らすことを思いつき
たったの数ヵ月で消滅した六本木「キャバレー」
みたいな店が、方々にできはじめてた。
夜遊びはよりシリアスに、アンダーグラウンド
展開になってった。
朝5時に、代々木公園へいきさえすれば、ほんの
10才かそこらの子供が、ラグビーボールほども
あるハシシの塊を抱えてて、脇の大人がデジタル
計測器をもって、ケバブ屋台みたく削いでくれる。
そんな時代だった。
個人的には、ワナダンスの存在が大きかった。
あそこの絨毯ばりな、フカフカのダンスフロアへ
1歩、この足をふみいれた瞬間
「あぁ。これ以上しあわせになんかなれない。て
こういう体験なのか」
明確に感じたのを覚えてる。
つまり不幸のどん底である。



何たってワナダンスは近いのがよかった。
玄関をで、坂を下り、信号1つもなく3分以内で
大音量な世界が待ってるのだ(同じ条件でクラブ
ジャマイカもあるがあれは別の話)。
交差点ひとつ渡るのが、どれほど命がけか。
結局は夜遊びとは、ここまで単純な評価規準へと
還元できてしまい、それがまた妙味だったりする。
イエローへは横断歩道を2回、越えねばならない。
だからワナダンスが消滅した日は悲しかった。
ラウンジ。みたいな台詞を皆、くちばしるように
なってた。北青山ホテルに代表される店ができて
前後してイエローも、踊るだけでなく寛げるよう
内装がかわった。1どか2どは見てるはずだ。
でも異空間では、なくなってしまってた。
魔法はいつのまにか、とけてしまってたのである。