2ど目の嵐は2日、続いてそして春がやってきた。
ケヤキ並木の先だけが、黄緑いろにふくらんでる。
まだ道路から見上げても冬の樹なままなのだけど
同じくらいの高さまで昇ると、はっきり気がつく。
空から眺めなくてはわからないものだってきっと
あるはずなのだ。



急に暖かくなったせいか、街をいきかう人たちは
戸惑ってるようでもあり、さ迷ってるようにすら
見えたりもする。
雲ひとつない青空の下、魂を忘れたのか、肉体に
すがりきれなくなったのか、死霊の群が歩いてる。
東京は春爛漫である。



ピーチネクターを買いに、『やまや』へ入った。
となりの棚に、30代くらいのアメリカ人男性が
クランベリージュースを小脇にしつつ、手にした
携帯へ、怒鳴ってる。痴話喧嘩。
「無断で俺のテリトリーへ・・」
などと、生きもの地球紀行みたいな話をしてる。
しかし流石、六本木だけあって、国際恋愛らしい。
ひとしきり、要はそこがマズいんだいやいや俺も
そりゃだって。を繰り替えしたあと、オクターブ
上がった感じで
「You know、shame is flip side of the ego」
とそれでも、ささやくようにした。
キメ台詞である。



枝つき干し葡萄のコーナーまで行き、引きかえし
レジへ向かう途中、窺うと微笑みが固まってる。
なぜか。
自我の裏面は恥。つまりは「恥を知れ」くらいの
ニュアンスであろう。または「恥ずかしいよ」
だがそれは自我論者の、アメリカ人においてのみ
汝の別なる心こそ、恥だと認識できてるのか。が
エスチョンとして成立するのであって、もしや
恥の文化をただひたすら邁進する、わが国の場合
「則天去私」
というか、やるだけヤッチマエみたいな、戦いの
火ぶたをきっておとしてるようにしか、聞こえて
なかったりするのではないか。



相互理解は難しいものだ。
男女間は絶え間ない闘争だともいう。
死だけが唯一の救いなのかもしれない。
どう思ってるのか、そしてどう思われてるのか。
そんなこと気にしてないと、実はみんな考えてる。
結局どれも相応しくないような気がして、なにも
声をかけずに帰ってきてしまった。