駅前世界遺産

Midas2008-03-07


3つ星フレンチの隣りは、焦げ茶レンガタイルの
たまらなくアーベインな、低層マンションである。
駅から徒歩1分。1階にはマクドナルドと、輸入
キッチン用品がメインの、メタリックな雰囲気の
雑貨屋。昨今、流行りな東南アジア物は扱わない。
アメリカンファーマシーやソニープラザの系譜に
つらなる、正統派だ。
マクド脇の階段を昇ってくと、そこはワタリ蟹の
パスタ、キャラフに入ったハウスワインが名物な
トラットリア。テラス席こそないものの、大きな
開口部からは向かい、かつては外国人専用だった
ヴィンテージ・マンション駐車場の、鬱蒼とした
緑を望める。
反対に地下へと進む階段はやや急で、途中で折れ
まるで居心地のよい、穴蔵へ入ってくかのように
窺いしれない。
だから移動式の看板が雑貨屋前に設置され、日が
くれて暗くなると、仕込まれた蛍光灯が、辺りの
アスファルトを照らしてく。店名の上には
「SINCE 1985」
と誇らしげに銘打ってある。
バドワイザーのプルタブに、ちからを込めてると
いつ何時、羊たちを巡る冒険が始まっても決して
コカインの副作用などではない。そんなパステ
カラーの、インスタントな80年代トリップ感。
この港区駅前世界遺産がぜんぶ、消えてしまった。
お正月あけぐらいから、次がどうなるという感じ
でもなく1面、ベニア板で封鎖されてしまってる。
ただマクドナルドだけ残して。
もちろん採算のとれてる様子ではなかったのだが
今回のプチバブルは乗り越えれなかった。きっと
地上げ、というより証券にくみこまれた大規模な
オーナーチェンジの影響かと思われるが、どちら
にせよ、ヘリコプターから放たれた高性能、対人
誘導ミサイルでピンポイント爆撃されてしまった
かのようだ。素朴な感想を述べるなら、
「時代が換わってしまった」
わけである。
名著「不透明な時」によるとこの、人々が何気に
いきかい、無防備な表情でフィレオフィッシュ
ぱくりとやってるこのマンション、303号室は
白石千鶴子さんとマジェスタ和の、愛の巣だった。
だから逮捕の1報を聞いても、驚きはなかった。



風船に結わえ、希望のように空へ飛ばした手紙が
14年ぶりで、暗い海の底から水上げされた鰈の
背中に、タトゥーみたく張りついて、発見された。
そんなニュースが、しばらく巷を、騒がしてた。
美談だという話だった。
釣った方も釣られた方も、まるでブクマのように
仲よく1つのフレームにおさまり、笑ってた。
これがきっかけで、ラブロマンスが始まるといい。
そんな夢をたくす人もいた奇跡だった。
ほんの数日後、今度は29年前、瓶につめ山口の
海へ放たれた手紙が、青森で発見されたのだった。
それを伝えるアナウンサーの声は、冷静さを装う
あまり、不幸を告げてるかのようだった。
同じだけ、めでたい話なのに、不思議に沈んでた。
あと追い報道も春の雪みたくたち消え、無かった
ことにされてしまった。
度を超した偶然は奇跡だが、度を超した奇跡ほど
恐ろしいものはない。
「2008年の展望。今年は上記の出来事からも
あきらかなように、歴史が、その円弧を閉じる年。
亡霊のように宿命が、幾度も回帰する年となろう」
ミクシィの日記を振りかえると、どうやら新年会
では、そんな与太をとばしてたらしい。



嘘もつき通せば、真実と見分けれなくなる。
所詮、この世は偽りのワルツ。批判など擦りぬけ
うまいことやってければいいんだよ。
三浦被告自身がそうであるかはおいといて、今や
電脳空間をはじめ、いたるとこで小石を投げたら
あたる雰囲気の劇場型人格。被告は、消費社会の
パーソナリティの「はしり」と、見なされてきた。
カリスマの失墜、20年ぶりのロール・モデルの
消滅である。
よって身柄の拘束が彼らのマインドへ、ひいては
社会全体へ与える影響は、いかばかりかと思う。
乖離を分裂と装って知らん顔をしてれば、やがて
人格がパラノイアの姿で、牙をむくだろう。
最終解脱でもしてれば話はべつだが、でなければ
スーパーやコンビニで万引きがやめれない主婦の
ごとく、ひたすら罰だけを求め続けるようになる。
その結果、ある者は似たような謝罪を繰りかえし
ある者は信仰や才能、実績や病を盾に耳をふさぐ。
周りからの非難だけが、ゆるみきった褌のような
人格のタガをしめれるからだ。
うまいことやるはずが、「うまいことやってりゃ
いいんだよ」と他人へ説くだけへ堕ちてく。
これをライフハックという。
正面玄関があると信じ、疑わない者だけが裏口を
探すのである。



キャンプビバリーヒルズに身をつつみ、ライトな
アバンチュールを楽しむ三浦被告を、われわれは
とってもアメリカンな人だ。
と思ってきた。
きっと本人も同じだろう。交通違反の疑いで誰何
された時、日本語が不自由な2世や、東北出身を
最後まで演じきれてたと、伝えられる氏のことだ。
少なくともアウトサイダーだと自己定義してたに
違いない。
「私は知ってる。真犯人は日本人」
発言が、どうもひっかかる。
誰しも自分のことが1番わからないものだ。それ
ばかりか皆、まさか自分だけはこうじゃない。と
思いこんで、他人を非難してる。そんな特質こそ
鏡に写ったその人の姿だったりする。自分は常に
勘定に入ってない。人間とは、勝手なものである。
社会においては、自分とはアウトサイダーなのだ
とも言えよう。
もちろんこれは、嘘つきのクレタ人が迷いこんだ
宮殿の庭と、風景は何らかわりはないのだが。
あの当時フェアレディZをはじめ、数々の名車を
街道馬のごとく、乗り捨ててきた経歴を鑑みると
流石にプリウスだのマジェスタだのという凡庸な
HNは、いかがなものかと感じざるをえない。
匿名顕名文明に対応できなかった。それだけでは
済まない、深刻なズッコケっぷりが見てとれる。
車検ごとにトヨタで新車を買うように、キャラを
いれかえんとしてるのだとも言えよう。
最高裁が罪なしとしたのも、無理はない。日本の
法律ではマジェスタ和は、裁けない。というより
わが国の規準では、氏は120%無実である。
素晴らしく頭がよいはずなのに、とびきり愚かな
ことばかり、しでかす。人間に深みというものが
なく、おさえにリゾート・アイランドのプールで
和んでるくらいの影しかできてないと、てらって
みせたりもする。
これこそが日本人そのもの、日本人以上の日本人
日本人の典型、「THE・日本人」だからである。
わたし的にも、真犯人は「日本人」だと思ってる。
だが全ての劇場型がそうであるように、実行した
という感覚が、あいにくお留守なだけなのだ。



三浦和義事件」によると、1968年の夏の日
後のマジェスタ和は、有刺鉄線の張り巡らされた
3Mの塀を乗りこえ、太陽をつかみとろうとした。
非常ベルが鳴りひびき、看守らの怒号が飛びかう。
ジェスタは脱走についてきた同房仲間、高森に
分かれて、別々に逃げねばならない。と告げた。
いち早く走りだした和は未来へ向け、叫ぶように
捨てゼリフを背後へと、言い残すのだ。
「高(森)!時代に潰されるなよ!」
と。
待ちあわせのレストランが、そこへ辿りつく間に
閉店してたり、ビデオを返すつもりが、喜太郎が
流れる和菓子屋に、居ぬきのまま、変身してたり。
そんな街で、ずっと暮らしてきたのだった。
全ての記号や手がかかりは跡形もなく、消滅する。
忘れるよりずっと速く。記憶の方が間違ってる?
と、錯覚してしまうほどだ。
身柄を拘束されたサイパン島で、保釈申請のため
開かれた審理において、三浦被告は自身について
「パスポートをとりあげられており、逃亡の恐れ
などない。『逃亡者』とされたのも納得できない」
そう述べた。
時代から潰されないよう、逃げてきた彼にとって
この肩書は、母国が与えた勲章ではないか、とも
感じたのである。