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2007/12/24 焼け家から出る満月 

カーテンを閉めたまま、ベッドでスタンダール
読んでると、ウォンウォンと直管マフラーの音が
次第に大きくなった。
夜になると鮭が河を上るように、暴走族の諸君が
ここらまでやってくるのは、1年で何回もない。
盆と正月、夏になりかけた連休の深夜くらい。
ということは、昨日までのあの渋滞−骨董通り
コシノジュンコからマックスマーラまで、歩いた
ほうが全然、早かった−は、消えてしまってる。
例年なら、道が空くのはあと数日してから。
でもさっきから、赤信号を次々と突破してる様は
聞いただけで外苑西は、ガラガラだとわかる。
のがす手はないので早速、でかけることにする。
ニコル前のストレートまで行って、こないだ修理
したばかりの4から5への、オーバードライブが
きちんと直ってるか、試してみる。2ど往復して
マイミク氏に教えてもらった「萌え家」へ。
探しあてた瞬間はちょうど、19年ぶりだという
クリスマスイブの月が、あばら骨を透かすように
影さしていた。
M氏によれば、この家屋は焼失したまま1年近く
放置されており、5月に発生した隣人トラブルを
原因とする刺殺事件で、犯人が逃走の末、近所の
病院敷地内で自殺をした、その経路であろうと。
「所有者の方へ お願い」
ゴシック体の拡大された貼り紙が玄関、引き戸に。
至急連絡してくれ。1刻も早い処置を。区役所に
問い合わせた。所有者が了解してないと言われた。
だからこうして、私達お願いしてるんです。
アンダーラインの赤マジックが、褪せはじめてる。
ここから東京駅は、20分もかからないだろう。
ほんの100m北へ進み、センターラインのある
片側1車線なバス道路を渡ると、4年前にできた
14階建てマンション(300戸)がそびえてる。
5分も歩けば改札をくぐれる。
駅前には現在、20階建てホテルが建築中である。
にもかかわらず、この家は見捨てられてしまった。
つまりここは、目下、地方のあらゆる駅前と同じ
運命を辿ってる、そんな衰退の最前線なのだ。
周辺が開発されたのは、明治に入ってから。
当時は通勤という概念がなかったため。というか
工場で生産された物を輸送するために、レールは
牽かれたのだった。だから今、小さなデパートや
ロータリーになってる辺りは全て、レンガ造りが
視界をふさいでた。
その裏側に、郊外へ延びるようにして、変則的に
繁華街が発展してったのである。
件のバス道路が、かつてのメインストリートだ。
マンションのあるとこは、公爵の別邸だった。
その向かい、1階がお弁当やさんのビルは昭和の
初期には、町で2番目に大きい映画館。
そして「萌え家」へ繋がる路地入り口にも、大正
時代、既に活動写真小屋があった。
この頃が、最も賑やかだったに違いない。当時の
モノクロ写真は、まるで夏休みの旧軽井沢みたく
いきかう人々が肩を、すりあわせてる。
映画館は再建された物が、1960年代半ばまで
あったようだ。前後して別邸は地元企業の迎賓館、
倶楽部として買収された(2001年に移築)。
現在は平凡な昭和「三丁目風」商店街は、年末の
午後5時ということもあって、ほぼ誰もいない。
車もあまり通らない。店はだいたい、開いている。
だんだん空気が澄んでくのもわかる。予備知識が
あればあるほど、目にするなにもが信じれない。
それが「歴史」のような気がする。
だから帰るまえにもう1ど、見ておこうと思って
暗くなった路地を歩いてった。
たとえ寂れてしまってるとはいえ、住宅地の中を
進んでると、忽然と、こんな景色が現われるのは
ショッキングである。
とてつもない不幸が襲ったのかと身震いする。
しかしほんの60年前、一帯は酷く爆撃されてた
はずだから、憶えてさえいれば、お馴染みの風景
なのかもしれない。
高級住宅地だと、理想の上司役ナンバー1の2世
俳優の微笑んでる広告に騙され、30年ローンを
組んで引っ越してきた人たちにしてみれば、いい
迷惑だろうが。
でも街が電飾で光り輝いてるときこそ、きちんと
対峙しておきたかった。
いったいこの家族はなにをあきらめたのかと思う。







mixi日記より転載・2007/12/24)
先日の商店街通り魔事件より直線で約2km