iモード時代の諸悪の根源

究極のご都合主義。
とでもいった人がいるとしよう。
世の中すべてがギブアンドテイク
「のしあがっちゃるけん!」
みたいな感じ。
当然、人間関係は単なる取引なのだから、自分に
有利だと思えば、即座に相手を裏切るだろう。
さらには、幸福の絶頂だと感じた瞬間にも裏切る
だろう(これ以上幸せになれないから)し、また
特別なんの問題もなくてもそれが充分、手の平を
かえす理由になるはずだ。
↑とこのような身勝手なふるまいをしてれば他人
からは人格の整合を、疑われるに違いない。
「同じ人とは思えない」
とか
「信じらんない」
とか言われるに至るのである。



ここで問われてるのは、もちろん
「諸悪の根源」としての「私」である。
つまりこのわたしは「私」をもてあましてるのだ。
↑は
近代主義なのにスキゾ」
とは、ベクトルが異なるのではないだろうか。
例えば「ネオナチ」があくまでもナチズムの派生
なように。



とはいうものの、ベンツの後部座席で亡くなった
どこかの国のお姫様みたく、金持ちの売女だけが
いたずらな嫉妬や不安に悩まされることなくして
心の底から貧乏人に同情できるというのも事実だ。
例えばこの国の国営放送は、ゴールデンタイムと
呼ばれる日曜の夜に、首狩族のギャングの抗争を
大河ドラマ」と称し放映し、人々はそれを見る
ことで、翌日からの物象化された抽象生産労働の
救いとしてるわけである。
恋愛至上主義の「泣かせる」映画とやらがどんな
社会体制に奉仕する免罪符でプロパガンダなのか
わかってるはずだ。
いったいどこの誰が、そんな、出てくる人たちが
善意のかたまりばっかで、ゆえに運命に翻弄され
愛だけが世界を・・・みたいなたわごとを客観的に
演じきれるというのだろう。



バッシングされれば、されるほど、演技に磨きが
かかるのも事実である。