秋田の聖女

新しい男に頼るしかすべがなくなると、かつての
連れあいとの間にできた子供を、あっさり殺して
しまうのは、哺乳類の世界では常識である。
国営放送のTVドキュメンタリーや動物行動学の
書籍(なぜ猫の尻尾は右曲がりなのか)を通じて
プロパガンダされた結果、大して罪悪感を抱かず
行使できる、市民の権利(オプション)となった。
かたや生きてるかぎり、どんなに身の程しらずと
謗られようが、世の中へ意見−正確には抗議して
みたいものである。
何かを訴えたいのだが、それがなんだか判らない。
すべては言われつくしてるようにも、どの訴えも
互いに1理あるようにも、感じてしまう。
身動きがとれないとき、最も適切な手段は
「ちがう、そうじゃない」
と主張することである。
つまり世間の非難や糾弾をわたしは望んでるのだ。
そう主張してみたいだけ。
コトの真偽よりも、主張のが大事だ。
なるべく長く主張してたければ、非難は的はずれ
であってはならない。
言い掛かりでなく、あくまでも正しい糾弾だけが
生きてる実感を、わたしに与えてくれたりする。
公判がはじまって
「子供を橋から突き落とし、いったんは事故だと
いう話でまとまりかけたものの、なんでわざわざ
自らに、疑いがかかるような行動を続けたのか」
このあたりが争点となりはじめた。
「ワタシはやってない〜潔白だ」
歌ってみたかった。というのが、正直なとこでは
ないのかと思う。
矛盾したメッセージを送ってこそイイ女。
そんな風潮もある。
反応を楽しむのが賃金労働者の、唯一の特権かつ
義務だったりもする。
県警の初期対応のマズさを、あげつらうのだけは
やめにしたいと思う。
さわらぬカミになんとやら。
ひごろ犯罪者ばかりを、相手にしてきてる彼らが
直覚しなかったはずはないのだ。
このての話はいくらでもあるのだろう。