プチ消費ファシズム

セカイ系のヒロインたちは、なぜにみんな不治の
病にかかってるのか。
いくらなんでも不自然では、なかろうか。
そう言われ続けてきたのだった。
欠点と見做される箇所こそが、本質だったりする。
わたしを中心に世の中がまわってるのが誤解でも
強がりでもなく、実際そうだとしたらどうだろう。
時間の女神がプリンセス・デビューするこの権力
奪取の場で失われるのは、客観てきな世界理解と
同時に、自己である。
そういった意味では、セレブの闘病記のたぐいは
最も純粋なセカイ系であって、かつての私小説
モーフィングしてできた、現代の純文学なのだ。



歴史上のどんなビッグイベントでも登場人物たる
わたしと彼女のラブロマンスの背景でしかない。
↑これが一般てきな、セカイ系の理解だ。
だがそもそもこれは「パールハーバー」みたいな
ブロックバスターの文法だったりする。



本来なら失われてくはずの自己を、背景としての
ヒロインへ、投影してるのではないだろうか。
身体は女、沈黙の時を除けば主張しかしないのだ。