女を殴る

「みなさん、これがテレクラで知りあった小生の
愛奴です。幼少の頃から性奴隷として開発されて
きたらしく、「ぶって、打って」と、叫ぶのです。
おかげで、共同経営してるカフェのお客さんには
不審がられ、暴力反対という理念で学校もクビに
なってしまいました」
改革開放の以前は、このようなカッコイイ文章を
読もうと思ったら、添えられてる気落ちするほど
プロポーションのわるい写真を、ついでにながめ
ねばならなかったものだ。要は民衆に与えられた
なにがしかの特権だったわけである。
それが現在では、わざわざ中小コンビニへ行かず
とも、お近くのキオスクで手にとれるようなった。
「投稿写真」文化が、「週刊文春」レベルにまで
大衆化してきたともいえよう。



この世には、あいかわらずタブーが存在する。
一部の魔法使いを除けば、だれにでも心あたりが
あるはずだ。とはいうものの、それは
「女を殴るなんてサイテーですよ」
みたいなかたちでしか、レストランで語られない。
世界の○○が、麻薬撲滅キャンペーンの旗を振る
ようなもんだろうか。
近年では、寝技にまで堕ちてしまった気もするが
「アタシ…電マなんて使ったことないの」
女の場合における、こちらのが近いかもしれない。
つまりフロイト学徒いわんとするとこの、主体の
弁証法である。



知りたいのは、くだんの先生が担当してた教室は
どれほど静かだったのか。という点だ。
ちょっと前、ネットでこんな議論がなされてた。
「子供たちが教室で騒いで、授業を聴かないのが
社会問題になっている。それは生まれつきモノに
囲まれてるから、消費者マインドなのだ。かたや
教育は、なにが役にたつか判らない部分がある。
鋼の錬金術師』が流行るのもうなずける」
本屋で万引きしたり肉まんにダンボール混ぜたら
死刑にしてしまえば平和になるだろう。みたいな
合理主義てき歴史観の亜種だった。



問題は搾取とはなにかではなく、教育の本質だ。
なぜならば、↑を言いだしたのはセンセイだから。
つまり教師だけが、くらぶキッズを主催できる。
プラトンも述べてるように、なんだかよく価値が
わかってなさそうなものを伝えてく「教育」とは
そもそも、誘惑の技術なのである。