メニペイアからモノあらそひへ

電脳空間の10年をふりかえる


日産がこのたび導入した、リスクマネジメントの
メンタルテスト(○×で答えなさい)には
「あたまの具合がなんだかおかしいです」
「だれかがわたしに催眠術をかけてるかも」
「毒を盛ろうとしてるひとがいます」
みたいな、いかにもアレげな質問にまじって
「ジャーナリストになりたいです」
という項目(設問94)が存在する。
さあたいへんだ。会社勤めのかたわら、情報発信
でもすっか。と、ブログに書き込んでるだけで
「熱あんじゃないか?ムリしなくていいよ…」
有給半年。と宣告されてしまう時代が、とうとう
やってきたのだ。
これはとても健康てきな事態である。
文芸復興とすらいってよい。
近年の研究では、パラノイアの9割がなにかしら
書きだすのだという。
だいたいからして自分の考えを文章にして誰かと
交流しようと願うことすら、狂気の産ぶつなのだ。
まともな神経をしてれば、金を稼いで飯を喰って
子作りにはげんでれば満足できるようになってる。
それでは
「もしかしたら最近、ちょっとウツぎみかもな」
とか
「身体の調子もイマイチだし、オレ病気かも」
みたいな、病識の全く欠けてるジャーナリストや
ブロガーたちに、われわれはどんな言葉をかけて
あげたらいいのだろうか?



これがすなわち、メニペイアの構造である。
メニペイアとは自由闊達、高歌放吟をもってその
特質とする。
かつては「墓場での対話」と称された。黎明期の
2ちゃんが、まさしくそれだった。
自由な発言とは、単に思いおもいを述べれば済む
わけではない。好きなことをわいわい言ってると
かならずどこかで、君が代を裏声で歌ってしまう
瞬間がやってくる。
たとえば交霊術でトック君を冥界から呼びよせて
「えーっと。人間は死んだらどうなるんですか?」
せっかく思いきって訊ねたのに
「あのね。死後の世界なんて迷信だよ。マルクス
ちゃんと読んだらどうだい?」
どこか会話が噛みあわないまま、ずれっぱなしに
なってくみたいに。



2ちゃんでいうと電車あたり、ちょうどSNSが
さかんに成りはじめたころから、あたらしい風が
吹きはじめた。
カノッサの屈辱ふうにいうと
「『淫乱』の発生」
である。
確かにそれまでも「ネットDEゲット」みたいな
のは、アマゾンで注文できた。
しかし、われわれがここで言及せんとしてるのは
年末恒例のマスゲーム紅白歌合戦に極めて似た
民俗学的潮流なのだ。
21世紀はどんな時代だろう?
「今世紀は世紀末の世紀」
「21世紀はベタ世紀末」
こんな分析が、されてたのだった。
グローバリゼーションによって「ふたたび中世」。
これもうんざりするほど聞かされた。
しかし最近、跳梁跋扈する直情てきなネトウヨ
狂信者のれんちゅうをみるに、電脳空間はもっと
アルカイックななにか、さらにさかのぼって太古
とすら形容するにふさわしい、ダークな情念をも
解放してしまったのではないだろうか。



あやまって
「クネクネ」
とよばれてる現象は、現在の東アジアでも中国の
少数民族やネパール、ブータンなどで散見可能な
歌垣という習俗が、サイバー化したものだ。
つまり集団による恋歌の応報を基調とした、愛の
シミュラクラである。
日本でいうと満月のよるに三味線をもって、若い
男女が村A、村Bから集まる。
1)村Aの集団が現場へ向かう途中の歌
2)現場で村Bに到着をつたえる歌
3)川をはさんで対峙した両集団による歌合戦
そしていろいろあって
4)おたがいそれぞれ「いいな」と感じた2人に
よるデュエット
5)たちはだかる村の掟
6)

とストーリーはつらなってくのである。
人類学徒の諸氏は、トラバをたどってもらえれば
国学者が涙して悦ぶ情景が、はてな内で繰り広げ
られてるのを、目のあたりにできるはずだ。



しかし。
はてなには構造的な欠陥がある。
全体主義ゆえの、複数集団形成の困難さだ。
はてなVSヤフブロ
的な対立も可能だが、今ひとつ盛り上がってない。
上記の数字でいうと3)の途中からしか見れない
ということでもある。
昨年でいうと、MIHIMARU GTはおろか
スガシカオもミスってしまう。
原点から検証したければSNSへいくしかない。
ここには
「マイミク」
という便利な制度があるから。
はてなのクネクネは、ミクシィの戯画なのである。



後言

日本の歴史をひとりの手で塗り替えてしまった男
ゴッドハンド藤村を憶えてるだろうか?
あの毎日新聞を眺めたあさ、全国民が
「なぜ?なんでこんなことするの?」
思ったはずだ。
決して売名行為なんかではないとわたしは信じる。
あれこそが
「ミイラとりがミイラになった」
ちかごろではそんな珍しくもない、ということは
神の手は、ウェーバーいうとこのカリスマだった
わけである。
みなかんちがいしてるようだが、もしも藤村氏が
縄文人だったなら、石器は捏造とはいえないのだ。
100歩ゆずってあの日々だけ、縄文人の御霊が
ゴッドハンドに宿ってそうさせた。
という解釈でもこの際、可としたい。