アスタリスク

「バッテリー」「巨人の星」「あしたのジョー
これら3つを、ザッピングで読んでた。
もしも、梶原一騎が「バッテリー」を書いてたら
どんな作品に、なってたろうかと思った。
実際は、梶原一騎は「バッテリー」的な世界観に
耐えられずに、今生を去ったといったほうが近い。
池上季実子ではなく、あさのあつこ梶原一騎
引導をわたしたという解釈もなりたつ。
それほど、これらはスポーツをテーマとしながら
正反対の主張を説いてる。
スポーツにわれわれが期待するものが、どこかで
転回してしまったのかもしれない。
「バッテリー」最初の刊がでたのと、梶原一騎
亡くなったのは、ほぼ同時期。
当時の新聞雑誌を、いまひとたび漁ってみると
「日本人も豊かになって…」
いわゆる「貧しさから這い上がる」、梶原作品の
美学が、通用しなくなったからだ。という意見が
大半だった。



マンガてきなもの。
に対する見かたもまた、換わってるのではないか。
生前に吉田健一を、自宅へ訪ねたひとに、印象を
うかがったことがある。
庭でビートルズ(サージェント・ペパー)を聴き
ながら、少年チャンピオンに大笑いしてたという。
血筋、というより
ローゼンメイデンも単なる2代目だったんだ…」
と感じた。
三島由紀夫が「あしたのジョー」の愛読者だった
のは、有名なはずだ。
しかし渡辺淳一が、柳沢きみおをチェックしてる
みたいな話もきかない。
社会への影響力からすると、昔のほうがあったの
ではないかとも思う。



目標


「あの夜空に輝く『巨人の星』になるんだ」
と実際に、くちに出してイメトレしてる。
たいへんに明確だ。
目標にむかって根性を入れ、努力するのである。
かたや
「本気ですごい球をなげてみろ」
と、問題は本気を出すか三味線をひくかに換わる。
資質を充分に展開できれば、150kmも決して
夢ではない。努力というより天才の世界なのだ。
もちろんNO1じゃなくオンリーワンだからし
全員が天才なのはいうまでもない。
ナンバーワンの世界では、ちなみにスピードガ
ではなく名前がつく。
いわゆる「魔球」である(大リーグボール1号)。
そして「あしたのジョー」のヒロインは
「本当のあしたは…どこにあるの」
と、思わずもらすのだ。



人生訓


梶原作品では
「チームワークってのはよぅ…」
みたいに、ちょっといい話。教訓のようなものが
頻繁に交される。とにかくみんな、人生を語る。
朝青龍のようにポジティブだ。
対して「バッテリー」は、見事なまでに後ろむき。
ことばが足りない。というよりは、言葉が不器用
すぎて邪魔ばかりしてしまう、メロドラマの空間
なのである。
こないだの「クローズアップ現代」で
「30代−40代の女性がなぜだか惹かれてる」
と紹介されてたが、もっともだ。
あっちがわの世界では、ステロイドとか大リーグ
ボール養成ギブスみたいなものがヤバイ。
ある日、燃え尽きてるしかないから。
こっちがわでは、あの日ホンキをだせてなかった
自分がすでにヤバイのだ。
作品が、魅力としてなげかける部分が、読みての
罪悪感を巧みにヒットしてるのだが、男女べつで
その対象が異なるといってもよい(または女性は
自らを対象とするとも)。



時間と空間


YMOがライブで「トキオ」と歌ってた裏番組で
お父さんは、ちゃぶ台をひっくりかえしてた。
ジョーは「涕橋」のむこうからやってくる。
まさしく都会の低開発地帯である。
しかしジャスコが品川にでき
「貧困はきもちの問題でお金じゃない」
と、大学の先生がブログで教えてくれるのが今だ。
生活保護を打ちきられ、餓死してしまったという
TVニュースを聞いても、あれこそが現代の戦死
なのだとする論調は、どこ探してもみかけない。
かつて貧しさがあったのだということすらもはや
イメージできないでいる。
「2000年から今までって時間が止まってね?」
みたいなスレが、最近もたってた。
時が止まり、空間がどこもファスト風土な世界は
かつて「伝統的」とよばれてた暮らしに、奇妙な
ほどちかい。
選挙にボロまけしたから
「美しいくに…」
と言わなくなった。そう伝えられてるが、じつは
もう完成してしまってて。言う必要がなくなった
からではないか。
時間が空間に換わる、パルシファルが迷い込んだ
森は、可逆的である。
つまり都合のわるいことはなかったことにできる
(時間軸がないから)。
さらには空間もリキッド化してるのだ。