八百長ぎわく

ワイドショーMC
「なんたって国技ですからね。自覚をもって…」
コメンテーターA
「違います。相撲は国技なんかじゃない。憲法
どこ見たってそんなふうに、書いてないんです」
コメンテーターB
「実質的には、みなさんそう思ってるってことで
よろしいんじゃありませんの?」
みたいなやりとりが、色んな地上波で交されてた。
つまりこのヘドニストどもの言わんとしてるのは
9条を改正さえすれば、八百長がなくなると主張
するに等しい、暴論なのだ。
チャンネルを教育へザッピングしてみよう。
「働き盛りを襲う『うつ病』」
なるネタで、良識あふる人々が悩んでる。
純真にその身をささげてきたはずの労働者がある
日、翼の折れたイカロスのように電車にのれなく
なってしまい、国益の観点からすると穀潰しにも
似た存在に変化するらしいのだ。
いまや国家をゆるがす大テーマといってよい。
ドルジ氏も立派な日本人。お仲間ではないのか。



靖国神社の鳥居がコンクリート製なように、今日
「相撲」と呼ばれてる伝統もまた、モダニズム
構築物だ。
ついつい忘れてしまいがちであるが、100年前
にはラジオもテレビも、中継してくれてなかった。
われわれのイメージしてる本場所は、ファシスト
政権下のそれでしかない。
メディアのスクリーニングをうけるまえ、太古の
相撲とは、現在の「地方巡業」にちかい宗教儀式
だった。
地方巡業で行われてる取りくみが、亀田祭りほど
ガチンコでないのはご存知であろう。
たとえば群馬でやれば、近隣地方の出身な力士が
強いのである。みんな負けてみせる。当たり前だ。
それによって、件の土地が将来永劫に渡って栄え
来年の米が豊作たる願いをこめた。
つまりこの勝負は、太古ではあるが古代ではない。
亀甲のさけ目を読む占いで、豊穣であるか否かと
神の怒りを伺うのではなく、むしろ神をあざむく
ことによって、人間と超越者が遊戯の関係に入る
信仰形態なのだ。
刺身のツマのようにいわれて久しい地方巡業だが
本来はこっちがメインだった。本場所はブランド。
ドサまわりに箔つけてるだけなのである
それゆえ「八百長」というのは正確な描写でなく
むしろ「談合」のがニュアンスとしては相応しい。
なぜならば、だまされてるのはわれわれではなく
天上、つまり「お上」だから。



宮崎県知事も述べてるように
「談合はわるい面ばかりではない」
美しきくにジャポンのほこる伝統だという事実も
はからずしてあきらかとなった。
今回のサッカー事件だが、はやい話がドルジ氏と
中田姐さんの凸凹2人巡業ではないのか。
もうヘタレばかりで、力士になりたいやつなんて
いやしないのだ。
もっと海外巡業を増やし行く先々で繁栄を説けば
いいのだ。財界も女子高生みたいにうじうじと
「モンゴルの地下資源は…地政学てきにも…」
ほざいてないで、バルト3国まではネオ共栄圏だ
と、本音を語ったらどうか。
それこそ八百長だと思うのだが。