地獄観の変遷

古来よりわれわれは、地獄をイメージすることで
暮らしのなぐさめとしてきたのだった。
つまり怖いもの見たさ。の効能である。
「ひとめ惚れされる、あいまい色魔法」
とか
「運命をかえる幸せ眉」
みたいなのは、とても恐ろしい(新装版MISS
6月号)。
女性向けファッション雑誌の世界へむかって
「物質文明のもたらす弊害が…」
などと語っても、夏の夜のボサノバのごとし。
とうてい太刀打ちできまい。
現在では、実質的に「男性誌」なるものは、存在
してない(チョい不良とかあのへんは男おばさん)
わけであるからして、釜のふたがあいてしまった
ともいえる。
いったいどこでわれわれは、道をあやまったのか。



登ってものぼっても針の山。杖ひたすとたちまち
海は血のいろ。
仏教画にはじまりボッシュを経由し、ムンクへと
いたる「阿鼻叫喚」の系列を今日われわれがみて
感じるのは、その不思議な静謐さである。
灼熱のただなかで、われわれは裸体のままつどい
舌を抜かれたりして途中、いろいろあって生前の
快楽を浄化し昇天。
そんなふれこみだったのだが。
しかしどうにもサイレント映画を眺めてるような。
ひしひしと迫ってくるものがないのだ。
「快楽が罪といわれても困るよなぁ。。」
とすら思う。



地獄に音をあたえるとしたら、それは罵声や怒号
というより、耳ざわりにちかいのではないか。
すなわち真っ暗のなか、主のいない数千の携帯が
安否を気づかう着信を同時にうけて、さまざまな
メロディで鳴りひびいてる。みたいな。
そんな現代の地獄図絵で、われわれは当然、快楽
などではなく、他人とつながりすぎて自己確立を
きちんと、なしえなかった。そんないいがかりを
中田姐さん(網タイツ)からつけられ、責め苦を
たっぷり、味あわされるのだ。
集団というターム、快楽という解釈。いずれもが
歴史上のどこかで、いれかわってしまったのでは
ないだろうか。