ドッペルゲンガー

こんな風に書くと、また誤解されるかもしれない
けど、ホントにわたしはそう思ってるのだ。でも
わたしが
「誤解されるかもしれない…」
と洩らすたび、まずまちがいなく誤解されるのは
なぜだろう?
「そんな情けないこと書くな」
とか
「ふざけるな」
とか言われてしまう。あたかもディスプレイ先の
他者を、挑発してるかのように。
わたしはなんども、自分に問うた。正直に不安を
述べてるだけ。これでは誤解されるために、誤解
されるかも?と言ってるのと、同じではないか。
これはもしや、禁句なのだろうか?



芸術と芸能を、折口信夫はこう定義してる。
「見世物が芸能、必ずしも見物人を必要としない
のが芸術」
するとインタラクティブの魅力とは、かぎりなく
腐敗した、そのなりたちに依存するのだとわかる。
重ねて彼は、寛容な芸術家と強欲な職人を比較し
「芸とは、表現が内容をおぎなってるもの」
と書く。
この場に100人いたとしたら、必ず1人くらい
いるだろう運の悪いやつ。ついひとこと、余計な
科白をポロっと言ってしまい、いつも窮地に陥る
彼こそが、まさに適役なのである。



もしもわたしが、自身でも思ってもいないような
受けとめられかたをしたならば、それはわたしの
「意図じゃなかった」
はずだ。
そしてそれこそが、そもそもわたしの、望んでた
展開ではなかろうか。
でなければあの巨大な空白へ筆をおいてく勇気は
どこからくるのだろう。



それはまた
「なんで人は書くのか?」
という公案でもある。
なぜにあんな、めんどくさい真似をしてるのか?
誤解される危険までおかして?
だれかに自分をわかってほしいから?自己顕示欲?
自分のことですら自分でどれほど把握できてるか
わからんてのに?



ここで語ってるわたし、わたしとは誰だろう。
誤解をおそれずに言うなら、わたしは透明人間で
すらない。よく
「一元描写における話者と主人公の距離」
なるものが話題とされるが、これが収束するかの
印象は、悪無限を理解してないとすらいえる。



普段なら、とても恥ずかしくてよう言わんような
下ネタやオヤジギャグを連発、じつの年齢なんか
関係ないって感じで、いつも中2マインド全開。
目についたら、煙たがられてるなんて気にもせず
ネカマかどうかも、とりあえずおいといて、まず
直メール。たなあげパワー自信あり。
みたいなわたしは、わたし以上に愉しむ者。あの
帝劇の2階や、銀座の煙草屋で目撃されたような
ドッペルゲンガーなのだ。
分身と不注意にたわむれるなら、いったいどんな
帰結が待ってるかは、ごらんの通り。