全能薬『母胎回帰』

本来はひとを癒すべきはずのクスリが、あたかも
酒に酔ったSPみたいな異常行動に、われわれの
子供を駆りたててるのでは?
とこれが現在、議論の前衛だ。
養鶏場のブロイラーと通勤快速の会社員を比べる
と、どちらがゆったり、暮らしてけるのか?
そういう問題でもある。
かつては「うさぎ小屋」と呼ばれてたものだった。
ネズミやノミが疫病を媒介する時代は去り、今や
鳥たちが、人間との相似条件を探ってるのだ。



「日本人にはオリジナリティがない」
そんなトークを、だれでも1どは耳にした経験が
あるはずだ。
ブログでも居酒屋でも、クリエイターが集まれば
たちまち始まる凡庸な文化批判の、さて具体的に
どこが、僻目なのか。
この手の連中の大好きな、有名人とやらにきいて
みればわかる。たとえば世界のクロサワが、あの
スピルバーグがはたしてそんな、言うだろか。
つまりこれらは単純な誤植、認識以前の見損ない
すなわち「『日本人』(という概念そのもの)が
オリジナリティがない」
てにをはの魯魚なのである。
 


ものごとには原因があって、結果がある。
これが因果関係。
反対に、この世にはオカルティスト。とでも呼ぶ
のがふさわしい群れがいる。
親切になにを言ってやっても、暖簾に腕押す人々。
こうなるに至った原因を述べたところで、彼らは
結果を説明してもらってるようにしか、聞こえて
ない。
原因を説明と取り違える。ゆえに原因が隠れてる
と錯覚してしまうのだ。



「薬と異常行動の、因果関係」
という。でも、そもそもクスリとは、それまでの
生活の因果関係を、断ち切るところを効能とする
のではなかったろうか。
もしも、ある種の帰結と推察される現状が病なら
そこから束の間とび地を造り、やりなおす機会を
あたえてくれるものこそ、本義だと思うのだが。
つまり、むすびつける。のではなく、ときはなつ
ものとしてのクスリ。
そして口をひらけば
「薬のふくさよう副作用」
というが、これこそ
「薬が副作用」
の、あやまりではないか。



幸いにして空も飛べるようになり、でんわという
便利な物のおかげで、テレパシー能力は衰退した
が、ひとたび重大局面に遭遇すると、われわれの
チョイスとしては、あいかわらずの共感呪術から
半歩くらいしか、ふみだしてない。
宿命が物質化したものが疫病なら、運命から刹那
はかない悦ろこびと共に、われらをひきはがして
くれるひきかえに、かえって宿命との対峙を迫る
クスリは、やまいの、そして生活の副作用である。



ためしにシャブ中、ヤク中を見るといい。
社会からの1時的な開放は、社会へ不満を述べる
ことを可能とする。
素材や論旨が稚拙なばかりに、言いがかりとしか
うけとれないような、彼らの発する呪いの罵倒や
世界理解
「このクズ」
とか
「わたしは不当にあつかわれてる」
とか
「組織にハメられてる」
のたぐいは、それなりに真剣な抗議活動なのだ。



まるでこのインフルエンザとやらが新種のBSE
で、プリオンが罪のない子供たちを、ゲーム脳
化して判断能力をうばい、たかが人生、強制終了
リセットすれば、やり直せるかのように、身体を
マンションの7階から、なげさせてる。
ではなんで、メンヘル掲示板でおなじみの
「まず仲間をつのる。信頼できるか、確かめる。
練炭とかガムテとかそろえる。レンタカーを…」
みたいなプロセスを、たどらないのか。



なぞの巨像モアイだけを残し、かげもなく民族が
消えてしまったイースター島に、断片的にのこる
伝説は
「ひとびとのアタマが鳥になってしまい…」
というような、錯綜した描写で知られる。
かたや
「なんと非常識!法廷で母胎回帰ストーリー!」
と、ふわふわヘアの女子アナが画面から語りかけ
てくるとき、わたしは思う。
かなりの数が、もはやキャリアなのではないかと。