本物の男、本当の女

もちろんそれぞれが嘘および、似せものだ。
ためしに引っくりかえし、投げてみよう。
「オマエそれでもホントに男のつもり?」
こう言われてもムッとしないなら、相当に人間が
できてる。しかし、とりわけベッドで
「ホンモノ?」
はマズいだろう。
刺されても、だれも同情してくれない。
つまりすべての罵倒とは、男を女と疑い、反対に
面と向かってわざわざ女を女と呼ぶとこを、その
礎としてるのだ。
日本語は主語があいまいなかわりに、複雑な敬語
体系をもち…
よく聞く話である。
そればかりではない。
あたかもクエン酸にひたした筆でしたためられた
ラブレターのように、男性冠詞または女性冠詞が
かくれてて、賢者たるやそれを忍法あぶりだしの
術をもって読まねばならない。
本当(男)本物(女)なのだが、これは限定詞と
すらいえないだろう。
なぜならば、あいまいな主語のおかげで、性別が
形容詞や動詞へも、拡散してくからである。
拡散と、主語の抑圧はセット、鏡のうらおもてで
それを補完するのが、漢語−やまと言葉のような
つかいわけ。
要はエンポリオ・アルマーニみたいなブランド品
なのだ。
だれが言ってるか?だけでなく、性差のひみつも
たくみに隠しこまれてる、ダビンチ・コードかお
まけの言語が、日本語というものなのである。