嫁のメシがまずい

用法は権力奪取なのだから、いまさら
「全然オッケーです」
が、日本語として間違ってると文句いっても遅い。



「すべからく〇〇〇すべし」
現在、ほとんどの場合において省略されがちな
「すべし」
は、願望の表明である。
つまり〇〇〇は必然ではあるが、実態は必ずしも
そうではない。これが
「すべからく〇〇〇である」
のような、必然というより
「すべてが〇〇〇だから」
に近いニュアンスを持つとき、表明されてるから
には当然、存在するはずの実態における不整合を
こちらの用法は、半ば暴力てきに否認する傾向に
あると言える。これがひいては
「誤用である」
というヒステリックな非難へとつながってるのだ。
「すべからく〇〇〇だ」
は、常軌を逸した、激ヤバな発言だったのである。
年寄りがイラッとくるのも、無理はない。ひとは
狂気にふれた想いがするからだ。
それではこの用法のルーツは、いったい文学史
どのへんにあるのだろう。


1番古いかは定かでないが、最も影響力を与えた
であろう用例は
「第四惑星の悪夢」
から、に違いない。われわれは
「すべからく」
を円谷シリーズによって、すりこまれてるのだ。
この第四惑星は地球の反対がわに位置し、高度に
文明が進んでしまったおかげで
1)あくまでもマニュアルに忠実なデータベース
通りのコーヒーを入れても
「いつも味が微妙に違う!」
とクレーム対象
2)そのあたりはすべて自己責任。諸悪の根源は
いつも人間。
3)人間は、人間らしく生きなくてはならない。
「残念ながらロボットさ」
みたく歌ったり
「BOT型人格」
と口ばしったら即座に死刑。ヒューマニズム万歳。
まるで今年の東京みたいな世の中である。
滝壺へとびこみたくなっても仕方ない気もする。
「万物はすべからく天体の動きに影響されながら
生きてるんだ!」
ということらしい。